シャロムに来て、もともと興味のあった食への意識がさらに
高くなったように思う。
野菜そのもののもつ味の強さ、深さ、
甘み、そういうものに日々驚いています。
それから、それを育てる農家のことや、
輸入している食品のこと、食にも密接に関わってる、文化の変容。
愛しい人と毎日ごはんをともにするしあわせ。
食ってなんだろう、とよく考えている。食と自分の体と心。
食べ物の持つエネルギー。
食と環境。食と文化。食と芸術。
食って、私にとってどう生きるかを考えるためのツールのひとつなのかな、と思った。
それから、サステイナビリティとか、LOHASとか、
わざわざ横文字にしなくても
西洋の概念をまるで新しい発見かのようにそのまま受け取らなくても、
「いただきます」とか「もったいない」という気持ち
日本にはそういう概念があるのだから、というか、先祖の時代から
残してもらっているから、それについてもっとたくさんの人が気がついて、
たいせつにしたらいいと思う。「いただきます」と「ごちそうさま」は
日本のすばらしい発明、と言っていた人がいましたが、その通りと思う。
少なくとも私の知っている範囲の外国の言語で、日本語のこの感じと
ぴったり同じ意味を持つ言葉を持つ言語ってないように思う。
食べ残しの常習、実はもったいない、と思いながら私もしていた。
中国では、客人をもてなすときに食べ残すのが文化で、
外食での食べ残しは悲惨なものがあるし、欧米もしかり。
日本は一緒に食事していても「もったいない」という言葉を誰かが発することが
多くて、まだいいほうかもしれない。でも、居酒屋の残り物の多さったら悲惨だし、
イタリアンでバイトしていたときも、
最初に出すパンの残りだけで、大きなゴミ袋が毎日いっぱいになった。
シャロムでは、ランチプレートのごはん(酵素玄米)は、
カウンターに設置したジャーから、お客さんが自分で食べられるだけを
よそってもらうようにしています。
食べ残しはほんとうに、ほとんどありません。
(おかわりも、できる)
夕食では、「預け鉢」と呼ばれる空のお皿を各テーブルに置いておきます。
ディナーの前にオーナーがお話します。
「あらかじめ、自分食べきれないかな、と思う分量は、手をつける前に
預け鉢に分けてもらい、同じテーブルの人で食べられる人がいれば、そのテーブルで。
同じテーブルで誰も食べなければ隣のテーブルへ。
他のテーブルでも誰も食べなければスタッフのまかないへ。
スタッフも誰も食べなければ、私が食べます」
ディナーも、食べ残しはほとんどありません。
いずれもちょっとしたことなんだけれども、
効果からみると、すばらしい工夫と思います。
それから、小さいポーションのメニューがあるレストランやカフェはありがたいと思う。
絶対にジャンクなものを口にしない、とか、農薬に神経質になりすぎる、とかいうことよりも
食べ物を大地からの恵み、作ってくれた人に感謝して、ありがたくだいじにいただく、
そのことのほうが、よほど多くの気づきが得られて、自分も世の中も変わっていくのでは、と
思います。
今日ランチの後、ポレポレさんで見せてもらったひょうたんを使ったランプシェードの
作家さんの展示などなど、高橋節郎美術館でイベントがあるというので、
さくらちゃんと葉月ちゃんとお出かけしてきました。
ガラスの人と、ネイティブアメリカンの楽器の人がいて、
美術館の奥の茅葺屋根のおうちにはいい空気が流れていて、
短い時間でさっさと行ってきたわりに、静かに満ち足りたというか…
すてきな時間でした。
庭のもみじがあんまりきれいだったので。
行き帰りの山山、パノラマビューもすごかったです!
すいかのソルベを溶かしたみたいな薄いピンクのところ、
太陽が沈んだばかりの山の影、すごーい。としか言えなかった。