くるみパパと今日は長いことおしゃべりしたが、
最近似てないようで母親と自分の似た部分とかを感じるようになったものだけど、
KOZOくんとくるみパパとはやっぱり父子、似通った部分があって、
男の子はやっぱり父親の背中みて育つっていうか、そういうもんなのねえ・・・
としみじみと思う。
いろいろと行動を起こせば自分のコントロールを超えた部分であるとか、
自分の認識が甘くて失敗をしたりということがあって、それを身につまされ
がーんと反省するようなことが起きたが、この歳になっても
心を砕いて忠告をしてくれた人がいて幸せなことである。
同時に、謙虚であるということはなんと難しいことであるかと思う。
そこまで心を砕いてくれるほどに自分のことをだいじに想ってくれている人が
いるということも含めて、感謝しきりである。
最終的に理屈ではない部分で人間は、物事は動いたりするし、
…いやあ、勉強の繰り返し。
自分の取った行動はなかったことにはできないし、
ある地点や人それぞれの見方によっては
それも100%間違いだったのだとは誰にも言えないことで、
そのことを悔やむよりは(悔やまないわけではないが)、
結果として、気づいた(気づかされた)何かをたいせつにすることで自分の人生の糧とし、
そうすることでしか自分の幸せとまわりの人たちの幸せとは
成り立たないと思う。
まいったなあ、自分。まいったなあ、この結果。と思っても
その‘まいった’を切ないと身につまされながらも、
甘受する・引き受けることで、謙虚に一歩近づけるといい。
痛みはそれぞれにあると思うが、NOTHING WRONGである。ザッツライフ。
そして持つべきものはよき友だなあ(プラス、すてきな父ちゃん!)
…とも思った日でした。
まいった、そしてショックではあるが、なんというか、
反面で心を明るくするような力が働いている。
それはまわりの人たちに照らしてもらってるんだ。
ありがたい…