今日は一日本を読んではうとうとしたりの繰り返しで、
ぼうっと過ごした。
実家に帰るとなんだかあれもやらなきゃこれもやらなきゃから
気持ちが解放されたみたいになって、ずるずると時間が過ぎていくようだ。
夜はくるみに寄ってこぞうくんとおしゃべり。
鷄のうんこを畑にくれるかどうかを真剣に話し込む…
っていうのは嘘だけど、実際に畑に立ち始めて、
野菜はちっとも育たないなかで、焦りもあったしまわりに肥料や草のことで
言われることも日常茶飯事で、ずいぶん混乱してきていたのだけど、
今週はもう一度「なぜ自然農なのか」を、改めて勉強してみたり、
自分に問い直してみたりという時間だった。
収穫がないことへの恐れも、つきつめて考えると自分のエゴの部分が
あったりと、実感としてはなかなかにきつい。
二つ借りている畑のうちの一つは、地主のおじいちゃんの畑の一部で、
咋シーズンまで化学肥料を使って普通に耕されていた畑だ。
トラクターを春にすでに入れられていたので、不耕起ではないが、無肥料
でやってみて、もう一つの畑(こちらは何年か休耕していて、比較的土の状態は
自然に近い様子)と比べたら、まったく野菜が育たない。
先日見兼ねた地主さんが痩せて黄色くなったとうもろこしに化成肥料をあげて、
土を寄せたら、めきめき伸びてきた。ほかの野菜は大きくならないどころか
黄色くなって息も絶え絶え…というかんじ。
臼井さんいわく、
「化成肥料を入れて耕した畑は、点滴やビタミン剤で生きながらえている人の体
のようなもので、土地はとっても痩せている」
「耕せば有機質が分解され作物はよく育つが、土地は痩せていくばかり。
肥料を入れ続ける必要が出てくる。
自然農は耕さないことで作物に60だが大地にも40残すことができる永続可能な営み」
あらためて自然農ってどんな農なのかと、整理をしてみた。
表面や結果に囚われて、なぜ自然農なのかという点が
ぶれていたのだと気づかされた。
それでも畑に立つことはできるはずだが、自分の求めているものって、
漫然と畑に立つことではなく、作物を育てる、その先にある生き方のようなことで
はなかったか。逡巡、洗い直し…。
作物が育たないという現実は、日々畑に立つ身には、
頭では理解できてもなかなか簡単に受け流せない事実で、
自分を責めたり、何かしないとという気持ちになって焦るし、
また、浅はかな知識で手を加えることで新たな問題を招きはしないか
と不安になったり、わからないことだらけだ。
ただ落ち着いて考えてみたら、自分は今現在しか見えていなかったし、
個々の現象に囚われているなと気付かされた。
自然農実践者がよくいうのは、作物が健全に育つようになるまでに少なくとも3年、
ということだ。まだ今年始めたばかりで結果を出そうということ自体がおこがましいのかな…
待とう、畑の生命の営みに目を見張り、できるだけ自然に寄り添うかたちでの農。
自分の畑がこれからどのように変化していくのか、
また自分の心身がどの程度までそれに寄り添っていけるのか、今は全然わからない。
今一歩深く勉強する心でもう一度畑と向き合いつつ、待つことをしてみようと思っている。
なんだか自然農の奥の深さをちょっとだけ垣間見させてもらったみたい…。
驚いた…驚いた…すごいものを連れてくる・・・
ただ単に農業のあり方ではなく、人としてどうあるかということ。と自然農の
人たちが言うけど、ほんとうに考えさせられるっていうか…
全てのことに意味があるんだな…村中の畑(問題の作物が育たない畑)が
あることで、考えることのできたこと…気づかされたこと。ありがたいことだと思う。
そしてこんなような話を、山の話も交えつつシェアしてくれた友達にも感謝です。
今夜は星がきれいな夜。もうすぐ新月。明日また畑に出るのが楽しみです。
投稿者 chaco : July 1, 2008 12:56 AM色々と考えながらやっているんですね。
僕も似たような事を真剣にしているものです。
収穫ができない事はつらい事ではありますが、
今は仕方がないとしっかり割り切って挑んでいます。
何が良いのか悪いのかはすぐに判るものではないから、
そんな時は草や種や土に任せる事にしちゃいます。
ただ周りの草を刈って根元に伏せてやって光と風を通してやってあげる事だけは余計なおせっかいになっていないかなって感じ。
3年間ミミズを見なかった土地に今年はミミズが沢山います。
それだけでうれしい気持ちになってきます。
これからもよろしくって。
アスパラもサトイモもちっとも大きくなりません。
でもいいんです。
土は毎年豊かになってきている事が判りますから。
今に見ていろ、しっかり美味しいもの沢山作ってやるからな。
そういう闘志をここの奥にしっかり抱いていますから。
今夜は月がきれいかな。