デリー大学で物理学と工学の博士号を取得したラジニ教授の研究室は、
下京区夕顔町の一角にある。
町屋造りの外観とは裏腹に、
引き戸を開けると内は梨子地のステンレスの壁に囲まれ、
所々碧色がかった硝子板で仕切られている。
奥の広い部屋の中心に背の高い円筒形をしたプールが聳え立っている。
高さは3メートル強はあるだろう。
外壁はコンクリート製で刑務所の高い塀を彷彿とさせる。
プールというより水槽とも言える。
高い筒の内側からは天に向かって光が放射され、
その分、影になった外壁は黒く見える。
脇に階段状の昇降台がついており、
昇って上から水槽の内を見下ろすと
真っ黒な水を湛えた水面は幽かに波打っていた。
これがラジニ教授の発明による「水槽式ブラウザ」だ。
World Wide Webの世界に身体ごと飛び込んでいける。
このブラウザのなかで、何日間かの時間を過ごした。
黒い水のなかで(この水がいわゆる「H2O」なのかどうかは判らないのだが)、
呼吸と栄養補給と排泄とが可能な仕組みにつくられている。
閲覧したい場所を決めると、そこまで泳いでいき、
胎児のように静かに身を屈める。
すると頭の中に情報が映像や音となって入ってくる。
冷静な情報は冷静な気分で脳に入ってくるのが判る。
エンターテインを狙ってつくられた情報は、
刺激的な楽しい気分を感じることができる。
そして、個人の思いがぶちまけられたようなページでは、
制作者の気持ちがそのままこちらの脳にまで波及してくる。
プールから上がると、
腹の贅肉を残して全身の肉が削ぎ落ちてしまっているのがわかった。
息が落ち着くのを辛抱強く待ちながら、
バスタオルに包まって、ラジニ教授の話を聞く。
英単語を一語一語区切るように、静かに発音していく人だ。
この装置では、情報は「波」として入出力される。
視覚や聴覚のように感じられる情報も、
すべて水中の波が全身の皮膚の触覚を通じて、
脳へ映像や音を送っているのだ。
「このブラウザの最も優れた点は、『思い』や『情念』といったものをやり取りできる事だ。制作者のハッピーな気分や熱意は、波となって君に伝わっていく。同じように、悪意に満ちたページは、波となってそれを見たすべての人に悪意を伝えるのだ。」
引き戸を開け外に出ると、日は落ちかけて蒸し暑かった。
斜向かいの奥さんが柄杓で打ち水をしている。
すると、どこからか大きな雲がやってきたのか路地一帯が急に薄暗い日陰に変わった。