直島で(1)
直島のことは、なにから書き始めたらいいのかわからない。
とにかく、静かな興奮に取り憑かれた。
こんな場所、日本中どこにもない、と思った。
書き始めは、抽象的なことからにしてみよう。
私は毎日、一日中、
眼を開けているあいだはつねにものを見ている。
でもそのとき、
脳の「見る機能」がすべて「眼の前のもの」を見ることに集中しているかというと、
どうもそうじゃない。
普段、私の脳の「見る機能」が
眼の前のものを見ることに割いている労力は、
割合にして7割くらいかもしれない。
残りの3割で、
私は、何か想像のなかの、意識のなかの像に、眼をやっている。
トイレでしゃがみながら
目の前の白い壁にずっと眼を向けているけども、
白い壁のことはほとんど見ていない。
例えば、だれかのしゃべる声が聞こえると、
その人の姿や顔が浮かんだりする。
プラットホームに電車が滑り込んで来るのを見ながら、
同時に、街並と浜辺と誰かの顔とがオーバーラップしたような映像を見ていたりする。
いや、もっと不可解な、模様や色のようなものが浮かんでいる。
眠りのつきはじめに、
ああ眠りに入るなあと自覚しながら
映像が浮かんでくることがあるが、
そんな、脈略無い映像が、昼でも頭の数パーセントを占めていたりする。
今も、こうやって文字を書きながら文字を見ている。
文字の意味を把握する程度には「見て」いるが、
それ以上の力を「見る」ことに注いではいない。
(むしろ言葉からつぎつぎに映像を連想しそれを見ている。)
要は、眼の前のものは、適度にしか「見て」いないのだ。
その比率が、9割1割だったり、7割3割だったり、
古いオーディオアンプの目盛と針のように、
つねに揺れつづけている。
・・・
眼の前にしているものを、見ていないこと。
そのことを、
ジェームス・タレルの作品をきっかけに実感した。
作品の狙いとは
別の方を向いているかもしれないが、
これは、不思議な副作用だった。