「高いとこの眺めは、アアッ(と咳をして)また格段でごわすな」
片手に洋傘、片手に扇子と日本手拭を持っている。頭が奇麗に禿げていて、カンカン帽子を冠っているのが、まるで栓をはめたように見える。――そんな老人が朗らかにそう云い捨てたまま峻の脇を歩いて行った。云っておいてこっちを振り向くでもなく、眼はやはり遠い眺望へ向けたままで、さもやれやれと云った風に石垣のはなのベンチへ腰をかけた。――
町を外れてまだ二里程の間は平坦な緑。I湾の濃い藍がそれの彼方に拡っている。裾のぼやけた、そして全体もあまりかっきりしない入道雲が水平線の上に静かに蟠っている。――
「ああ、そうですなあ」少し間誤つきながらそう答えた時の自分の声の後味がまだ喉や耳のあたりに残っているような気がされて、その時の自分と今の自分とが変にそぐわなかった。なんの拘りもしらないようなその老人に対する好意が頬に刻まれたまま、峻はまた先程の静かな展望のなかへ吸い込まれて行った。――風がすこし吹いて、午後であった。
(『城のある町にて』より)