註釈は、夏の月を涼を添えるのに格好の景物と見て、眼前たることを疑っていないが、この句の狙はそうではないのではないか。夏の月を挨拶の趣向につかえば今宵の座には特別の興が見える、と凡兆は言いたいのかもしれぬ。句は、市中「は」と初五を分説して押出しているから、「物のにほひ」のしない何処かから何者かが「市中」に入りこんでいることを要件としているらしく、そのために夏の月がいっそう印象的に仰ぎ見られる、という仕立だろう。それは作者が洛外から京のまちに戻ってきたとか、家から市中へ出ていったとか、あるいはまた、家の中にいて身のまわりに市中の気配を感じとったとかでもよいが(凡兆の家は当時上京の南外れ小川通椹木町上ルあたりに在ったようだ)、個人的感想はむしろ挨拶にならぬ。発句としてふさわしくあるまい。とするとこれは、陋屋へ迎えて申訳ないという謝辞ではないか。そう読むと納得がゆく、幻住庵からわざわざ甚暑のまちへ下りて来た芭蕉の風狂を、凡兆はねぎらっているのだろう。同時に句は心の月の涼に寄せて、山居の人の清々しさを仰ぎ讃える躰の精神的表現ともなっているようだ(凡兆自身の志もそこに覗く)。涼を眼前にのみ求めると、こういう句はどこがよいのかわからなくなる。
(『連句入門 ―蕉風俳諧の構造―』より)
もう十年程前になるが、
「深読み名人」安東次男先生のこの本で
連句というものを知った。
連句。
それは、筋金入りの季節マニア((c)SDP )たちがつくる、
言葉の連想スライドショー。
メンバー間だけに通じる符牒(サイン)の応酬。
ルールの制約をむしろ楽しみ、
きょうのこの日この場所で行なわれる
この試合一回きりの
「イメージ」の華麗なるパス回し。
市 中 は 物 の に ほ い や 夏 の 月 凡兆
凡兆のこの発句の裏側には、
きょうの集いに対しての
おもてなし・感謝・発奮、などの感興が萌え出ているという。
( 芭蕉さま わざわざ街まで おいでやす m(__)m )
安東次男先生に言わせれば、
それこそが連句を読むときの醍醐味であり、
翻って、連句をつくる際には心掛けなければならない
必修事項なのであろう。
しかしながら、
凡兆のこの発句は
そんな連句の醍醐味を拒みたくなるほど
単体であまりにも魅惑的だ。
五感で見る絵のように。