「杉本博司 時間の終わり HIROSHI SUGIMOTO End of Time」展
2005/9/17〜2006/1/6 森美術館
■杉本博司 美しいコンセプト
杉本博司の作品とはこれまで何度か出会っていた。
有名な水平線のシリーズ『Seascapes』には、有名とも知らず
原美術館か小柳ギャラリーで目にしていた。
また、この夏には直島で2つの作品を体験した。
一つはベネッセハウス本館のインスタレーション『Time Exposed』。
(これは『Seascapes』の作品群と瀬戸内海を同時に見るというもの。
『Seascapes』の作品群は屋外のコンクリート壁に並べられ、
雨ざらし陽ざらしにされているが、作品が風雪を経ることも狙いだという。)
二つめは、老朽化した神社を建直し、神社ごと作品化した『護王神社』である。
いずれも興味深い作品なのだが、
しかしハッキリ言って私は杉本博司をなにも理解していなかった。
そのことを、今回の展覧会で思い知らされた。
展覧会場に入ると、まず
「数理模型」を撮影した『Conceptual Forms』シリーズの
巨大な写真に心奪われた。
入り口側からは見えないように並べられた
展示手法自体が美しい。
「芸術的野心のないものにも芸術は宿るのだ。」
これは、
このシリーズの入り口に書かれた杉本自身のコメントの一部。
この作品のコンセプトが一瞬にして理解できる。
杉本の作品は、このように、
すべてのシリーズが端的明解なコンセプトを持っている。
試みに、他のシリーズについて記してみれば、
『Dioramas』:
三次元のニセモノが、二次元にすることでリアルに見えるパラドクス
『Seascapes』:
「古代人の見た風景を、現代の人間が同じように見ることは可能か。」
「時間から逃げさる唯一の方法は、時間のなかに身をおくことだ。」
『Theaters』:
「一本の映画を、一枚の写真として撮影せよ。」
「過剰な情報は、無に等しい。」
『Architecture』:
建物の外観をぼやかすことで、 建築家が建物を作る前に網膜に思い浮かべたイメージを 再構築しようと試みている。
「ここでもひとつのタイムトラベルを試みた。」
まさに
これこそが、コンセプチュアル・アートと呼ぶに相応しいものだろう。
コンセプチュアル・アートという言葉は、
これまでに手垢がつくほど使われてきた。
しかし、それらが追求していたものは
美しさではなく、
往々にして、以下のようなものであったように思う。
「逆説」
「アンチテーゼ」
「批評」
「皮肉」
「アイロニー」
「社会批判」
「画壇批判」
「オマージュ」
「パロディ」
「ヘタウマ」
「自我」
「無意識」
「説明不可能な行為」
etc.etc.
展覧会の一番最初に、
デュシャンの『大ガラス』のレプリカが置かれていたことを思うと、
杉本もそのスタート地点においては、
旧来のコンセプチュアル・アートを志向していたのかもしれない。
しかし、
その後杉本が選んだ進路は、正当で正統な芸術の道だった。
その作品自体が美しく、
そしてそれ以上に、そのコンセプトが美しい。
その両者を合わせ持ったアートを、私はこれまで見たことがなかった気がする。
モナリザの髭や、
汚れのない業務用掃除機。
缶スープのラベル、
腐っていくリンゴ。
アフリカ彫刻からのインスパイアや
カンバスへの体当たり。
それらのどれとも異なる、
杉本博司の「美しいコンセプト」。
そのことは、
以下に引用する「BRUTUS」杉本博司特集の二つの文章に、
極めて端的に表わされていると思った。
「なぜ古美術に惹かれるのか。深い信仰を糧に、一切手抜きをせず、技術の限りを尽くして作られたものには、存在としての強さや、意図はしなくとも、自らにじみ出てくる表現が備わっている。皮相的な時代表現や、ダダ漏れの薄っぺらい自我を売りものにする『現代美術』が、逆立ちしてもかなうはずがない。そのことに気づいてしまった杉本氏は、古美術が持つ『美』の強度と深度に拮抗する作品を作ることを、自らに課してきた。(前後略)」
(『現代美術作家が平安至上主義系過激派コレクターになるまで。』より 「BRUTUS」2005/9/15号)
「杉本博司という作家についてつくづく感じるのが、制作態度や、美術との関わり方の非近代性です。洋の東西を問わず、近代以前のアーティストは神仏や政治的、軍事的権力など、見えざる巨大な力に奉仕する存在でした。ところが近代以降、奉仕の対象は制作者自身や他者など、目に見えるものになってしまった。そんな作品に対すると、物が見える前に作家が見えてきてしまう。これでは観る側は、容易に感情移入できません。しかし、奉仕のためにつくられたもの——僕の場合は仏教美術が一番好きなんですが——にはすっと入っていけます。どちらを真にアートと呼ぶべきか、まだ結論は出ていませんが、信頼に足るものは前者のほうにより多い。自己への奉仕であれば、妥協するのは簡単です。しかし、神仏への奉仕のために作られたものは信じる対象が無限大だから、妥協点にも限界がないんです。
杉本さんの作品にも、自分を超えたものへの奉仕があるように感じます。(前後略)」
(千宗家『時間のほとりにたたずむ諸国一見の僧、杉本博司。』より 「BRUTUS」2005/9/15号)
はるか昔、
中学生の頃に読んだ新聞に、
志賀直哉の言葉として引用されていた文章が
思い出された。
曰く、
仏像を見るとき、人は、その作者に思いをはせたりはしない。
「これは誰がつくったのか」などとは思わない。
ただ仏像が、みずからここにいるかのように眺めるのである。
続けて志賀直哉は、
自分もそのような作品をつくりたい、と述べていた。
杉本の作品は、
志賀のその言葉のように
荘厳な匿名性を帯びはじめていた。