「物心ついたときには満開の桜のように頭上に民主主義の虹がかかっていた世代の男一人、四十も半ばを迎えて、人生の初っ端から騙されてきたという積年の思いに、いくらか焦りが伴うようになってきたということだ。」
「過去の例を見ても、とくに企業恐喝の場合、警察が発表しない限り、関係者の動きはほぼ100パーセント、闇の中になる。
それは十分納得しながら、根来はひとり、事件の隅の隅のまた隅にちらつくタレ込み屋や、株屋や暴力団の姿をあらためて思い、今度もまた、そうした地下にうごめく影の方は遠からずあいまいになっていくのを予感した。それはそれでよかった。この国の上から下まで、どこをめくっても出てくる地下茎の一つなどどうでもいいが、現にちらちらしている異物について、とりあえずそれが何であるかを知る役目は、誰が負う?
戸田とやらを探せと部長は言う。戸田に連なって菊池武史の名が出てきたら、今度は菊池のウラを取り、GSCグループの動きを探り、誠和会から岡田経友会へ、政治家へと探りを入れていくことになる。そうして異物の正体を知っていく自動運動を支えているのは、書けないけども知っておかなければという、新聞の奇妙な使命感だったが、その役回りを引き受けるのは、当然のことながら、日々の紙面を飾るネタを求めて奔走している第一線の記者ではあり得なかった。」
「誰も飢えていないところへ流れるニュースに、痛みは伴わない。旗を振るような人類共通の関心事などこの世にはなく、全人類を包括するような万能の思想も体制もない。あるのは、人間の小さな群れとそれぞれの生活と、どうでもいいシステムと、物を作って消費する自動運動だけだ。そうして、地震のひと揺れで六千人が死んだ日も、地下鉄に撒かれた毒ガスで五千人が死傷した日も、この多摩堤はジョギングやテニスを楽しむ人で溢れていたのだが、この穏やかな無意識に自らを沈めるなと言うならば、一人一人の個人はかなり孤独な精神のひとり相撲を強いられる。」
(高村薫 『レディ・ジョーカー(上)』 毎日新聞社 ISBN: 4620105791 より)
引き続き、下巻へ。
『ウェブ進化論』(梅田望夫 ちくま新書)と同時進行。