『国家の品格』を読んだとき、
いちばん最初に頭に浮かんだ感想は
日本人が美に繊細なら、じゃあどうして日本の景観はこんなに醜いのか
という疑問だった。
幼い頃から
バスの車窓を眺めては
くりかえし沸き起こり、
そのたびいろいろな言い訳をつけて抑え込んできた感情。
それが改めて、読後にくすぶり始めた。
そんなある日、
ひょんなきっかけで
赤瀬川原平の写真集を見た。
『新 正体不明』(東京書籍 ISBN: 4487800145 )
ページをめくっているうちに、なにか
積年の疑問に対する、言葉にできない答えをもらった気がして、
一瞬涙がうかびそうになった。
(なんで赤瀬川原平の写真集で感涙しなければならないんだ? (大変失礼。))
「自分が作品として何かを作ることがつまらなくなり、がっかりしていた一九七二年、路上でふとそういう物件を見つけたのだ。
ハッとした。作家が作らなくても、世の中には知らずに出来てしまった妙な物件がある。」
(『新 正体不明』より)
私が赤瀬川原平の存在を知ったのは1987年。
当時発売されたばかりの『超芸術トマソン』(ちくま文庫ISBN: 4480021892)を
読んで以来の旧知(=ファン)だったから、
たまたま手にした『新 正体不明』も、最初からすべて判った気で
トマソン以上の期待はせずにページを繰り始めた。(重ねて失礼。)
「ぼくはとくに思いがけないものが好きだ。人間の頭の面積に不満があるからだ。もっと広くていいはずだと思っている。だからカメラによって、見ているつもりで見えていなかったものがあらわれてくるのは、じつに気持のいいことなのである。」
(同上)
写真に撮られているのは、ゴミすら片付けられずに散らかったままの汚い町角。
しかし
途中から、ふと
これは
汚いはずの町角が美しく見える写真であることに、気づき始めた。
そう思ってさらにページをめくると、写真のキャプションの中に
「汚いけど綺麗。」
などと書いてある。
「たとえば最初の正体不明では巷の物件そのものに興味がいっていたが、十年たつうちには、そういう物件を見る人間のまなざしの方に興味が向かっているようなのだ。物も変わるが、人間の目も変わっていくものらしい。
今回は物件というには頼りないようなものを、その細部の魅力に引かれてかなり載せようとしていることに気がついた。こんなものを載せるとばかにされるかな、と思いながら、でもそのスリリングな関係に、何か潜んでいるような気もするのである。」
(同上 下線引用者)
あのときの感涙の正体は何なのだろう。
きたないと見えて、実はその中に美を含んでる日本の風景に感動したのか?
いや・・・
きたない風景の中にすら、美の道を見出す日本人の感性に感動したのか?
う、ん・・・
きたない風景の中で、まるで芭蕉のように最先端の美を見つけた赤瀬川のまなざしに感動したのか?
うん・・・
きたない風景にも適応し、その中で美すら見つけ出してしまう。ごみ溜めのなかの虫のような日本人の性(さが)にあわれを感じたのか?
・・・そうかもしれない。
投稿者 vacant : 2006年04月02日 17:48 | トラックバック