なんてことを考えていると、(つづき)
ふと、ある文章を思い出した。
それは、
向井敏の『文章読本』(文春文庫 ISBN4-16-717002-7)に教えてもらった
G.K.チェスタトンの素敵な文章。
奈良美智の「A to Z」の先に感じた
「学園祭的なものへの、おそれ」とは、
こんなことだったような気がしたのだ。
長くなるが
引用してみよう。
「大人が誰もおもちゃで遊ばない理由はただ一つ、それももっともな理由で、つまり、おもちゃで遊ぶのは、ほかの何よりも時間と面倒を必要とするのである。子供が遊びというその遊びは、世にも真剣なもので、われわれ大人がその小さな義務や小さな悲しみに加わったが最後、われわれは人生の厖大な洋々たる計画をある程度放棄せざるをえなくなる。われわれは、政治や商業や芸術や哲学をやる力はある。しかし遊びをするだけの力は持っていない。これが事実であることは、子供の時に何かで遊んだことのある人、積み木で遊んだ人、人形で遊んだ人、ブリキの兵隊で遊んだ人なら誰でもわかると思う。私の新聞記者としての仕事は、金をかせいでくれるが、何もかせがないあの仕事のように恐ろしい一途な熱心さでは営まれはしない。
たとえば積木。かりに、あなたが、『ヨーロッパの建築の理論と実践』について十二巻の本を出版するとすれば、その仕事はなかなか骨が折れるだろうが、根本的にはたわいないものなのだ。子供が積木を一つ一つ重ねて行く仕事が真剣であるほどには真剣ではない。その理由は簡単で、もしもあなたの本がつまらない本でも、誰もそれがつまらないことを究極的に完全に証明することはできない。それにひきかえ、積木の釣合いのとり方がまずければ、積木は容赦なく崩れてしまう。それに、私が子供というものをいくらかでも知っているとすれば、子供はもう一度厳粛に悲しげに崩れた積木を組立てるはずである。ところが、私が本の著者というものをいくらかでも知っているとすれば、彼は何と言われようがもう一度本を書き直すことはおろか、考えなくてすむものなら、その本のことなど二度と考える気づかいはない。
(中略)
大人が子供のゲームに加わらないのは、だいたいにおいて、それが面白くないからではなくて、要するにその暇がないからだと言える。これほど重大な、厳粛な計画に、労力と時間と頭を使っていられないのである。私自身、この間から、小さなおもちゃ劇の場面をつくろうとしている。(中略)
ところが、今まで物語や論文を書いた時よりもよほど一所懸命おもちゃ劇場に精を出しているのだが、どうにも仕上がらない。この仕事は私には荷が重すぎる。途中でやめて、もっと軽いもの、たとえば偉人伝か何かに手をつけないではいられない。
(中略)
こういうことから、私は、不滅性のほんとうの意味について、ある感慨をもつ。この世では、結局、純粋の楽しみなど持つことができないのだ。そのわけは、一つには、純粋の楽しみがわれわれにもわれわれの隣人にも危険なものだということだが、また一つには、純粋の楽しみがあまりにも面倒だというところにある。かりに私がほかのもっとよい世界にいることになれば、ひたすらおもちゃ劇場だけやっていられるくらいの時間があって欲しいものだし、芝居の少なくとも一つくらい滞りなく演ぜられるだけの、天上的、超人間的なエネルギーが持てればいいと思う。」
(G・K・チェスタトン「おもちゃ劇場」より引用 『棒大なる針小』(別宮貞徳訳。『G・K・チェスタトン著作集』第四巻。初刊昭和五十年、春秋社)に収める。)
婉曲で誇張した表現が、
ユーモアとペーソスを含んでいて、
余韻に大きなものを感じる
そんな文章だ。
・・・
まさにこれが、
「A to Z」展のホームページを見て
直感的に思ったことなのだ。
言うまでもなく、
この文章のなかの「遊ぶ子供」と、
「A to Z」の奈良美智が重なって見えたのである。
・・・
引用しながら
気がついたのだが、
この文章を、初めて読んだとき、
この意見に、感覚に、完全には共感できなかった。
子供の遊びより大人の仕事のほうが楽だ、という気持ちに。
そのことを思い出した。
アタマではわかったが、心では
子供の遊びのほうが、楽しくて、楽な作業だと思っていた。
(いまでも少しはそう思っている。)
そして今、
奈良さんを見てこの文章を思い出すというくらい、
この文章に共感を抱きはじめている。
(それでも、いまだ、最後のブロックは、
アタマでしか読めなかったけど。)
また一つ、私が、いつのまにか社会化している。
時の経過に、ちょっと動揺した。
もう、止めることはできない
不可逆、そして、社会化。