(つづき)、
一枚の絵を見るとき、
よく4つの映像が目に浮かんでくる。
(まるでレイヤーのように。)
1)いま、この場にある、この「絵」
2)描かれた当時の(19世紀だったり、昭和初期だったり)、その「絵」。
3)そのとき、その絵のモデルとなった、静物なり人物なりの、「現物」。
作者の眼に映った、その当時の、リアルな現実。
4)その、リアルな現物と向き合っている、作者の姿。
たとえば
1)は、
2006年の今日この日、この展覧会会場に飾られている、このセザンヌの絵。(たとえばね。)
今日の、この私にとってのリアル。私の目の前にあるこの現物の絵。
「ほほぉー、絵筆のタッチが・・・」とかいう感じ。
2)は、私の想像が時代をさかのぼる。(ぞくぞくする。)
ヴァシリー・カンディンスキーが、描いたばかりの、そのときの、大きなカンバス。
今の時代とは違う服を着た男女が道を行く、今の時代とは違う街並み、そんなアパートの一室で。
いま、また筆が入り、いま、描きたてのほやほやが、いま、誕生した。
3)は、たとえば、
岸田劉生の『道路と土手と塀(切通之写生)』を見ながら、この坂が、そのとき、たしかに存在した。目の前に。リアルとして。
その現物を想像する。
風とか、湿度とか、日差しとか、産毛や皮脂とか、土踏まずの疲れとか。
『麗子像』の本人を想像してしまうのも同じ感覚だ。
作者の眼が、それをどう見たのか、についても想像する。
まるで、『マルコヴィッチの穴』のように、
作者の眼を通して、当時のリアルを見ている気になる。
そして、4)。
作者はどんな顔で、どんな服を着て、どんな部屋で、どんな気持ちで、この絵を描いたのか。
どんな生活をして、どんな恋愛をして、どんな悩みを抱えて、どんなものを食べて、どんな音楽を聴いて。。。
この4)が、今日の問題です。
ピカソが、ゴッホが、シャガールが、ダリが、ウォーホールが、その他大勢の画家が、
鑑賞者やファンたちから、その制作プロセスを想像され、
そればかりか、生活プロセス(?)までも詮索されてきた。
作者はポップ・スターになり、
舞台裏、伝記、ポートレート、書簡、日記、名言集、恋愛遍歴、メーキング映像、etc.etc.が注目を浴び、
果てはその生涯が映画化され(J.M.BASQUIAT?)、
作者のキャラクター性が、
その作品に多大な付加価値を与える。。。
そんなケースが往々にしてある。
・・・
さて、奈良さんである。
今回、僕が弘前で見せられたものは、
(誤解をおそれずに暴言すれば、)
「オレと
豊嶋くんと
仲間たちの
思い出物語」
という
「制作プロセス」
と「生活プロセス(?)」
だった。
(あー、言っちまった。)
いつからか、
奈良さんは、
「制作プロセス」を公開したり、
「生活プロセス(?)」のような表現をすることに、
大きく魅せられてしまったらしい。
もともと、そういう気質の人だと思うけど、
(≒えふりこき。)
大阪のgrafで「S,M,L」展を見たときに、その萌芽を感じた。
ワープロで打ったエッセイのようなストーリーが掲出されていたり、
メーキングDVDが売り出されたりしはじめた。
現在、原美術館にパーマネントコレクションされているような、「制作部屋」自体を作品として見せるスタイルも、確かこのとき生まれた。
楽屋裏を作品として見せるスタイルが、
このときはとっても新鮮だった。
2002年の「I DON'T MIND IF YOU FORGET ME」展のときには、薬味程度でいい味だしてた「プロセス表現」感が、
2003年の「S,M,L」展では、芽を吹いて、
「From the Depth of My Drawer」展のころには、(そのタイトル、そのコンセプトからいっても、)
作品価値の25%くらいに膨張し、
今回、「AtoZ」展で、体感50%を超えた。
会場のカフェで流れていた映像は、
韓国、台湾、タイを巡る、
「オレと豊嶋くんと仲間たちの思い出の」メーキング映像。
展覧会の冒頭、
壁一面に
「AtoZ」というタイトルの解説が書かれている。
「何から何まで」という英語辞書のような訳の次に書かれているのは、
「オレと豊嶋くんと仲間たちの思い出の」キーワード集。
50ワードくらいあったかな。
はっきり言って、
知らんよ!タイのビール銘柄にかかわるセンチな思い出なんて!
共有できないよ!
と、
思ってしまった。
(ああぁ、ついに言っちまった、吐いちまった。)
ファイン・アートの世界に居ながら、
ロックン・ロール・ユース・カルチャーを愛する、
そのスタイル。
とっても格好いい。ユー・アー・ファイン・アート・ポップ・スター!
でも、好きなレコードジャケットだけで四方の壁を埋めただけの展示って、何?
見せたいのは、あなたの「生活プロセス」??ですか?
(ああ、もう止まらない。)
2階に上がっても、そのことが気になって
巨大な夜の海のような「新作」も、素直に見れない。気が散って仕方ない。
2階の後半は、
「オレと豊嶋くんと仲間たちの思い出の」集大成。
豊嶋くんからのFAX、サムネイル、たくさんのペンキボトル、
木の切れ端にメモった、ビッグ・アイデア。。。
スケジュール表。あと00日!!ああ・・・・
ごめん、
私の心は、そんなわけで、曇天。のち暴風。
これは、嫉妬? 羨望? アンビバレント?
なら、いいんだけど。
それとも、この「プロセス表現」こそが、『現代』の『美術』なのか。
もしそうなら、少しは気が休まる。
私の左脳が、私の心臓を、少しなだめてくれるだろう。
そして、1階に戻る。
休憩室を装った、小スペースは、
なんと、
どこからどう見ても
奈良サンが、この展覧会の会期中に挙式しようともくろんでいる
結婚式会場。
唖然&絶句。ご自身の展覧会に、ご自身の結婚式場がビルドインされている!
11人いる!
・・・
なんだかこうなる予感はしていたんだ。
ホームページににじみ出ていた「プロセス表現」全開モードに対しての、
私の複雑な思いが、あのような日記を書かせたのだ。
だから、いみじくも「学園祭」なんてコトバが出てきたのさ。今思えば。
そして、7月14日の日記を遠い目で見る。
2002年の
「I DON'T MIND IF YOU FORGET ME」展を記録した
『HIROSAKI』
というタイトルの大判の写真集がある。
吉井酒造煉瓦倉庫と、奈良さんのかけがえのない作品とが
はじめて出会った瞬間。
ただ、作品。ただ、『絵』。
それが、吉井酒造煉瓦倉庫という、夢の中の思い出のような場所に
ただ、展示されている。
感動的で、感傷的な光景。
幼少時の思い出の結晶が、
その故郷へ、帰ってきた。
そこには、たくさんの思いがつまっている。
ただ、それは、その場所で『絵』をみれば、わかる。
展覧会場で
「プロセス」を説明してくれる必要なんか、ない。
そんなの、
よけいなお世話なんだよっ!!
(響くエコー・・・・、安達哲のとりかえしのつかない絶交シーンのような。↑)
・・・
「横浜トリエンナーレ」日記につづき、
また「昔のほうが良かった」的日記になってしまった。
ちぇっ。
応援してたインディーズ・バンドが、メジャーデビューして、
複雑な気持ちになっている女子のような。。。
要するに、
嫉妬だよな。
これは。
そうであってほしい。
・・・
「A to Z」会場で、雑誌『ART IT』の奈良美智インタビューを
立ち読みして、
この複雑な気持ちは、
ちょっとだけ、
腑に落ちた。
そのインタビューの引用は、次回。
投稿者 vacant : 2006年08月07日 21:58 | トラックバック