2006年08月24日

(ひとつ前からの、つづき)

弘前の展覧会で勝手に煩悶した私の気持ちは、
雑誌『ART iT』のインタビューを読んで
少しだけ、腑に落ちた。


私を煩悶(?)させた
奈良サンのFEVER状態。
(=チームの制作プロセスを、作品として見せたがるFEVER状態)
これは、どこからやってきたのか?

もしかしたら、奈良サンは、自身の「社会化」にFEVERしてしまったのかもしれない。

「リアル」と「社会化」に目覚めてしまったのかもしれない。


(以下、カギカッコ内引用はすべて『ART iT』vol.4 No.3 (ART iT co.,Ltd.)より)

「やっぱり、人間は社会的な存在で、ひとりでは生きていけないということ、共同体として生きているんだってことを実感できた。」

「たとえ会うことがない人たちも、実際はみんなつながっているんだって。たとえばどこか外国の農村でつくられた小麦が日本に輸出されて、それを日本の工場でパンにして、コンビニでそれを手にとるという連鎖が、すごく実感できるし感謝できる。ペンキを塗っているボランティアの人も、その最初の一粒の麦みたいに思えるの。」

「結構、自分のやりたいことって、(中略)
本当はみんなの汗と労働を伴うことだったんじゃないかと思う。生きている実感っていうか。」

「文明社会では平和な世の中なのに、大人たちが幼稚化して、バカらしいほど子供っぽくなっているでしょう。アメリカ人とか特にそうだし、日本人だってそう。でも、人っていうのは、自由な発想が生まれる前に、まずご飯食べたり、生きていかなきゃいけない。そういうことを自分は見ていなかった。長いこと忘れていた。」


自分って「社会化」してなかったんだなぁ、という気づきは、
すなわち、
自分って「社会化」したなあ、という感慨でもある。

社会化してなかった人(?)が
自身の社会化に気づいたことによる、興奮状態。
それならば、すこし共感できる。


ではなぜ
奈良サンは「社会化」したのか?
(アフガニスタンに行ったから?)

このインタビューを読むと、その「社会化」のきっかけこそ、grafとの共同作業経験だったようだ。

ではなぜ
grafとの共同作業がここまで続くことになったのか?

奈良サンは、
自分の作品を、自分が納得できる環境で展示したかったらしい。

展示する環境も含めて完璧な作品をつくりたかったらしい。

その環境をつくれたのが、grafの「小屋」だったようだ。

「2001年に横浜美術館で個展をやったとき、自分ひとりでは弱い存在だなと思ったの。絵を描くことはできるし彫刻をつくることもできる。でも、それを展示する環境をつくるのは、すごい労力がいるんだと実感した。あのとき、いまの小屋の原型となる、壁だけの稚拙なドローイング小屋を自分でつくったんだけど、いま思えば、自分が帰れるいちばん確かな場所を本能的につくろうとしていたんだと思う。」

「それから数年して、graf media gmで展覧会をしたときに豊嶋君と出会って、もっとうまく作品が存在する環境がつくれるんじゃないかって思った。」

「何て言うか、完璧な単体作品って自分の中ではありえなくて、どこかがいつも欠けている。それは画面の中だけではなくて、周辺5メートルで欠けているものかもしれない。そういうものを補ってひとつの身体にするのが、小屋というシステムなんじゃないかな。」

「だから、最近は無謀なことに、小屋ごとじゃないと売らないの。そうしたらその環境がキープされて、循環するビオトープのような機能を小屋が果たす気がして。」


そして、
展示環境への執着と、
社会化を自覚したことによるFEVERが、
彼を今回の「AtoZ」展へとつき動かしたのかもしれない。

「いままでは全部巡回展だったから、経験者がつくった展覧会を受け入れればいいだけでやりやすかった。でも、今回は最初の企画からすべてを自分たちでやっていて、そんな自覚が最初はなかったし、すごくとまどったよ。いかに自分がギャラリーとか美術館とか、既存のシステムの中で展覧会をしてきたか痛感した。」

・・・

奈良美智は変化したのだろうか。

2002年8月5日に予感したことと、つながって

奈良さんは、オトナになったのかもしれない。

奈良サンは、社会人になったのか。


奈良さんが大人化することで、
アーチスト奈良美智がどう変わっていくのか。
それは前から期待していたことなのだけど、
実際それを目の前にして
私が、インディーズバンドの応援から降りた女子のような気持ちになってしまうのは、なぜだろう。

(知るか。)

・・・


もっと考えると、

無垢であっていいアーチストが、
無垢でいられない時代なのかも知れない、と思う。

無垢であっていいはずのアーチストが、
世の大人たちのバカっぷりを心配しなければいけない、そんな時代なんだろう。

(坂本龍一とか、AP BANKとか、のんきでいられない人たちを思い出してしまう。)

4月12日の日記で引用した、鷲田清一氏の論説を思い出した。

ひとはもっと『おとな』に憧れるべきである。そのなかでしか、もう一つの大事なもの、『未熟』は、護れない。


アートとか、アーチストという存在の『未熟』さを、まもれない時代。
そんな風にも読める気がする。

もともと「大人」だったものが「未熟」になり、
そのかわりに
もともと「未熟」でよかったもの(アートもそうかもしれない)が、その貴重な「未熟さ」を放棄して「大人」化を心がけてしまう。
文化全体の
アダルト・チルドレン現象とでも言うべきか。


(危機の時代って、いつもそうなのかも。
ピカソの「ゲルニカ」を見るまでもなく。)

(それに、アーチストによっては、憤慨する意見かもね。
「オレらを未熟扱いするな!」「エコは人として当然のこと」
みたいな、ね。)


私はただ、「中心と周縁」の「周縁」が、
「オレが中心やらなきゃ!」とあせるってことは、
中心がちょっと壊れ気味なんだろうな、と思うのです。


・・・

雑誌『ART iT』の短いインタビューの最後に
奈良サンはこう言っている。

「そう考えると、この展覧会はお花見かもね。でも、ひとりになるってことも大事なことだからさ、お花見が終わったらひとりで散歩もしなくちゃね。」

2002年の弘前で、奈良さんの次の一歩を期待したときのように
今また、この一文を読んで、
私はひそかに期待をしはじめている。

成人式で仲間とFEVERしたあと、
ひとりになってなにを思うのか。

ほんとうに今の世の中に必要なのは
むしろ今よりもっと「無垢」なものなのかもしれない。

???

・・・


ところで、

私のいまの住処には、奈良さんの作品が一枚飾ってある。

展示方法は、
かなり、適当。
でも、
作品は、もはやそこに根をおろしたように
とても居心地よさげに、私には見える。
私は、満足している。

完璧な展示を目指すと言う
奈良さんのコメントを読んで、
「完璧な展示」って何だろう、と思ってしまった。

作品を完成させるのは、
鑑賞者。

だという考え方もある。

いまも世界中のいたるところで
奈良作品が、
鑑賞者の好きなように飾られながら、
それでも
鑑賞者に満足を与えていることだろう。

ビオトープのように完璧な展示を目指すと言った
奈良さんにとって、
そのことは果たして耐えられないことなのだろうか。


・・・



投稿者 vacant : 2006年08月24日 23:59 | トラックバック
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