反省文 弘前 (つづき ずーっと前からの)
拝啓
お疲れ様でした。
10月22日(土)
『Yoshitomo Nara + graf A to Z』展が、
来場者数7万人をこす大成功のうちに無事閉幕しました。
振り返ってみれば、会期中
奈良さんを何度もつかまえては「FEVERだ、自己批判せよ!」とからんでいた
カウンターの酔っ払いのような私こそが「FEVER」だったようです。
あの夏の、シリーズ日記をあのまま終わらせるにはしのびなく、
熱病から醒めた目で、自分の気持ちをもういちど見直してみました。
以下、「奈良美智 AtoZ をめぐるひとり相撲」シリーズ、
その【まとめ】篇です。
●まず、「完璧な展示」に対する、私の考察(?)は、あまりに意味のないイチャモンだったようです。
作品を生んだ作家たるもの、それが「最高の展示」で見られることにこだわるのは全く当たり前のことだし、その延長で、「見せ方も含めて作品」と作家が考え至ることも、何もおかしくないことだと思います。
それが、作家の手を離れた後も、(私のような適当な展示ではなく、)できればよりベターな(否、ベストな)展示で、作品を鑑賞して欲しいと願うのは、作家としては当然の気持ちでしょう。
●展示の話つながりで言えば、「小屋」のルーツについても当てずっぽうで、話をしました。
あのあと、やはり当てずっぽうですが、次のように思いました。
「吉井酒造そのものが、小屋のルーツのひとつなのかも。」
『S.M.L.』展は、大阪のgrafの中につくられた吉井酒造だったのかもしれない。なんて。
●さて、そもそもの話に戻りましょう。
私の「胸さわぎ」の原因から、もういちど冷静に振り返ってみます。
『I DON’T MIND,IF YOU FORGET ME』展では、感動し、
『Yoshitomo Nara + graf AtoZ』展では、いまいち気がのらなかった。
それは、単なる趣味の問題といってしまえばそれまでですが、
私が、奈良さんの絵にどんなものを求めていたのか、という問題だったように思います。
(それこそ趣味の問題といってしまえばそれまでですが。)
ひと言で印象批評すると、
『I DON’T MIND,IF YOU FORGET ME』展は、奈良さんの「個展」(というか「孤展」)。
『Yoshitomo Nara + graf AtoZ』展は、奈良EXPO。奈良万博2006
って感じでした。
関係ないかもしれませんが、
私がいちばん好きな絵を思い出してみました。
思い出してみたら、それはゴッホの『夜のカフェー』でした。
(夜のカフェテラスじゃなくて室内のやつですこれです。)
こちらを向いている給仕さんの存在が、ここに作家がいることを強く示していて、
それより何より、
網膜に染み入るように表現された電燈の灯りは、
(そして床や壁に反射した光の加減は、)
まるで作家が「ボクの網膜にはこんな風に見えるんだ(けど、どう思う?)」
とつぶやく、「言葉ではない声」を聞いてしまった気にさせるのです。
カンディンスキーも、川瀬巴水も、ポロックも、デ・クーニングも、東山魁夷も
好きですが、
やはり『夜のカフェー』の、
パーソナルで、内省的で、でも、自分の網膜を(静かな自信で)プレゼンテーションしてくる感じが、私にとっての好きな「絵」なのかもしれません。
たとえて言えば
本当は不特定多数に向かって話しているラジオのパーソナリティーと
まるで一対一で向き合ってるような感じで
私は「絵」と向き合っていたいのかもしれません。
『I DON’T MIND,IF YOU FORGET ME』展で感動したのは、
ひとつひとつの作品から、
「ボクはこういうのがいいと思うんだけど、どう思う?」
というパーソナルな、声なき声が聞こえた気がしたからのような気がします。
(心にしみ入った弘前展だけでなく、ホワイトキューブの横浜展でも充分に。)
『Yoshitomo Nara + graf AtoZ』展では、
なぜだかそういうパーソナルな声は聞こえてこなかった。
(観客の人数のせいではありません。初日はびっくりするほど空いてましたから。)
それはたぶん
不特定多数のなかの「私」にむかってではなく
不特定多数の「全員」にむかって、作品が、展示が、アピールされていたから
ではないかと思いました。
漠然と、「ポピュラー化」の意志を感じたのです。
ホームページのなかで、観客のどなたかが
「テーマパークのようで」と喜びの声をあげていましたが、
「みんなに楽しんでもらおう」という奈良さんの情熱は、
7万人の全員には向いていても、7万分の1(の私)には向いていないような気がしたのです。
不思議なことですが、
長かった前宣伝や、熱気あふれるホームページの様子から
今回のコンセプトが「みんなに楽しんでもらおう」という方向であることが
見る前から
うすうすうすうすと伝わってきていました。
「みんなを楽しませるために頑張る」奈良サンの熱気と、
「イベント(≒テーマパーク?)として成功するために頑張る」スタッフの熱気は、
私をひそかに不安にさせました。
みんなのための展覧会は、私のための展覧会ではなくなってしまうのではなかろうか、と。
その言葉にならない予感が、
「FEVER」「学園祭の前夜祭(いい意味でね)」というようなコトバになってあらわれた。
今思うと、そんな気がします。
そして、展覧会で見た
「豊嶋くんと仲間たちとの思い出」は、
明確に、
私ではなく
「豊嶋くんと仲間たち」のほうを向いていて、また
私ではなく、
「鑑賞者全員」のほうを向いていると
感じたのです。
その結果、私が
「インディーズバンドの応援から降りた女子」になったのは前に書いた通りです。
●視点を変えて、同じ「胸さわぎ」を村上隆的(?)に見てみましょう。
(『芸術起業論』も読まずにテキトーなことを書きますが、)
ムラカミ的に言うと、アートとは
「こんな○○○○な作品に金を出すオレはこんなに○○○○だ」というアートコレクターたちの「○○○○比べ」という市場を相手にしているわけで、そこへむかって、
作品自体が「ワタシはなかなかに○○○○で価値がありますよ」とプレゼンしていかなくてはならない。
ということらしいです。ある意味、納得できます。
でも、この方程式を奈良作品にあてはめると、
なぜだか妙に哀しい気分になるのです。
なぜ哀しくなるのか、実は自分でもよく把握できていません。
でも、理由は以下の2つのどちらかのような気がするのです。
(2つ正反対の理由ですが。)
1)このまま行って、奈良作品は、「○○○○比べ」の美術市場から、飽きられちゃったりしないのだろうか?
2)奈良作品も「○○○○比べ」の美術市場を見据えながら生み出されていたりするのだろうか?
相当余計なお世話ですが、
(なんでこんな余計なことを考えてしまうのでしょう?私は。)
わざとうがって言っているわけではありません。
展示を見て歩きながら、
「私に向かって語りかけてくる」声がきこえないかわりに、
「みんなの」とか「ポピュラーな」とか「だれかの」とか「美術界の」といったよけいな雑音が
アタマを邪魔するようになってしまったのです。
(これは、見る側の私のせいですかね。そうかもしれませんし、わかりません。)
●そうまとめてみると、
「胸さわぎ」の原因は、
私が書き連ねた奈良サンの「プロセス開陳」云々のせいというよりも、
制作のベクトルが(「プロセス開陳」もふくめ)、
「あなたへ」より「みなさんへ」となっていたことによる、「寂しさ」だったような気がします。
「みなさんへ」とベクトルが向いた原因は、
やはり、奈良サンの「社会化」にあるのかと思いますが(これも当て推量ですが)、
その「社会化」自体が悪いことだとは、今は思っていません。
おしなべて芸術家は環境や社会に関心をもたないほうがいい、という風なニュアンスに
受け取れることを書いたのは言い過ぎで、ナンセンスだったようです。
(ただ、芸術家が環境や社会に過剰に関心をもつことで、失われるものもある
とは、今も思っていますが。)
●「プロセス開陳」と「リアリティ」の問題はどうでしょう。
それを「リアリティ」と呼ぶかどうかは別として、
奈良作品の「制作部屋」や「封筒の裏紙へのドローイング」や「ぬいぐるみ」は、
「作者の存在感」を見る者に感じさせる有効な手法になっています。
そしてその狙いは「郵便配達夫の前のゴッホ」や「縄文土器を使っていた縄文人」に感動した奈良サンの原体験にまで遡れるものなのではないかと思っています。
仏像の「アノニマス」性を引き合いに出したのは、
あまり本質的な話ではありませんでした。
「アノニマス」も「作者の存在感」も、どちらもいいよねってくらいの話です。
私自身、『夜のカフェー』が好きなくらいなのですから。
●さて、ここまで
「胸さわぎ」の原因は、
「『あなたへ(パーソナリティ)』から『みんなへ(ポピュラリティ)』へと移った『寂しさ』」にあるとしてきましたが
もしかしたら
正確に言うと
それは
奈良さんの意識がそもそも
「『じぶん(奈良自身)へ』から『だれかへ』へと移った」
のかもしれない、
と思いました。
「ボクはこういうのがいいと思うんだけど・・・」
という『じぶん』のための作品が、
どこかの『だれか』(あるいは社会全体とか?)へむけた作品になってきた、
だからそのベクトルは私には刺さらなかった。
そういうことなのかもしれない、
と思いました。
(あ、また余計な推測がはじまった・・・)
●以上、たいへんに長々と、
結局今回も、また最後まで
失礼千万で
当て推量で
らちもない考察になってしまいましたが
6万9999人の賞賛のなか、1人くらい勝手な意見があってもいいのではないか、と。
7万分の1の鑑賞者の、
偽らざる「胸さわぎ」と「寂しさ」だけは、どうしても伝えたく。
(かつ、反省を伝えたく。←弱気だな。)
前に書いたように、
「花見を終えた」奈良サンの、新しいひとり旅には
大いに大いに期待しています。
これもまた、偽らざる気持ちに変わりはありません。
それでは。また次回の展覧会にて。
(もうヘンなことは書きません。)
お体にお気をつけください。
敬具
・・・
「奥さん」
その大使夫人に、向かいの席にすわっていた新庄文隆がいった。
「奥さんはそんなにつくり方を細かくおききになって、お宅に帰ってからつくってみるおつもりですかな」
「まさか。とんでもございませんわ」
大使夫人は笑っていった。
「それなら、そういうことをおききになるのはおやめなさい」
「どうしてですの」
大使夫人は笑いを消し、声をけわしくしていった。
「無駄だからですよ」
新庄文隆は、学者らしく明解にいった。
「こういう料理を前にしたときは、われわれ素人は黙ってその味を味わえばいいのです。われわれにできることはそれ以外にないのですから」
(『美味礼賛』海老沢泰久著 より)
投稿者 vacant : 2006年10月27日 23:21 | トラックバック面白い日記、拝読しました。更新日から時間がたっていますがコメントさせてください。
実はA to Z初日鑑賞後の日記をリアルタイムで偶然発見して、ショックを受けた一人です。
I don't mind, if you forget me.で衝撃を受け、A to Zで違和感・胸騒ぎを覚えたという感覚の一部は理解できます。
あまりに身内色が濃く、思い出・友情が強調されている点。
アトリエ、レコード、作業場などのプロセス開示。
これは鑑賞者が美術品と静かに対峙するというスタイルからかけ離れています。嫌でも鑑賞者は作家の内面に触れざるをえません。
私が一緒にA to Zを鑑賞した友人も、奈良小屋は「(内面見えすぎで)怖い・気持ち悪い」というようなことを言っていました。
I don't mind, if you forget me.はシンプルで力強い作品と倉庫の空間によって圧倒的な衝撃を与えました。A to Zを何度も堪能した今でも、作品の第一印象の強さで言えばI don't mindの方が大きかったと言えます。
A to Zが「みんなで」を強調したものになったのはここ4年ほどの集大成であり、この規模でこのスタイルで行うのは最後だからで、おそらく奈良さんは今後また「個」に返って行くでしょう。作風もモチーフもテーマもベクトルも、常に変わり続けている人だと思います。
私が言うまでもなくとっくに腑に落ちたのでしょうが・・・蛇足ですみません。
再び偶然にこの反省文を発見して、なんだかとても安心したのでコメントしました。
奈良美智の次の出方に期待!ですね。
NATTIさん、コメントいただきありがとうございました。私の主観的な暴論を、怒ることもなく冷静に受け止めていただきありがとうございました。7万人分の1の意見を受け入れてくれる(?)人がいたことを知って、一読して安心のあまり脱力してしまいました。これからもよろしくお願いいたします。
Posted by: vaca : 2006年12月26日 20:10