ゆえあって、
赤瀬川原平翁の『老人力』を読んでいる。
以下は、
老人力と「趣味」について書かれた一文。
「それに、歳をとると、どうしても人生が見えてくる。つまり有限の先が見えてくるわけで、その有限世界をどう過すかという問題になってくる。
若いころは人生の先がまだ遠くて、有限性がわかりにくい、だから自分の人生への切実さが少く、思想の世界のために自分の人生を寄付できるとも考えてしまう。じっさいにそれを実行に移して、思想のために自分の人生を棒に振る人もいる。振り切ってしまえれば、それはそれで自分の人生を楽しんだのだということもできるけど、ちょっと苦しい。やはり自分の人生というときの、「自分」がちょっと希薄なのだ。
で、棒に振るにしろ振らないにしろ、歳をとると、自分というのが濃厚になる。他の誰でもない『自分』の人生という有限時間が確実なものとして、一本の棒のように認識されてくるのだ。
趣味はそこからだろう。自分が楽しくなければしょうがないわけだから、世の中にコミットするもしないも、それも趣味のうち、といえるようになる。つまり思想が趣味の人もいるだろうし、政治が趣味の人もいるだろうし、運動が趣味の人もいるだろう。思想思想という言葉の裏に、それぞれみんな『自分』の人生を引きずっているのが、本人以上に見えてくるのだ。」
(赤瀬川原平『老人力全一冊』ちくま文庫 より引用)
なんというか、
なんであろう。
この境地、とでも言ったものか。
ある種、
これは
デタッチメント側からの、達観した声明文
と
受け止めるべきものだろうか。
人は老いて、再びデタッチメントの境地に達するのか。
前回の養老先生のハナシと
あわせて考えると、
まさに面白い。
世間から逃げてきた若者が、
やっぱり世間を知ろうと大人になり、
そして
老いて再び
世間はもうわかったそろそろ自由にさせてくれ
という境地に達する。
ということか。
養老先生がもがいたように、
人はみな、そのルートをたどって
人生を歩んでいくものなのか。