那覇空港を発った飛行機のなかで
『文藝春秋』三月号の
第136回芥川賞受賞作、『ひとり日和』(青山七恵著)を読んだ。
そして各審査員の選評も読んだ。
読後の気持ちは、なんか鬱、だった。
石原慎太郎の選評ではないが、
今の人間は、どうして
こんなにも生き弱く、スポイルされてしまっているのだろう。
もちろん、自分も含めて、だ。
以前新聞で読んだコメントでは、受賞者青山さんは
(非常にうろおぼえだが)
日常のなかのほんの些細なことに敏感でありたい
たとえばコピー機が立てる音とそのときの気持ちの揺れ・・・
(非常にうるおぼえすぎる!)
みたいなことを
言っていて、
ああ、その感覚は共感しそうだなぁ
と、そのときは
ひどく親近感をいだいた。
その
「些細」をすくい取る感覚が、この作品で
何に向かって総動員されたかといえば、
それは
あきらめと無力感で満たされたモラトリアム女子
(というかそれがフツーな典型的現代人)
を描く為なのだった。
「コドクな女子の生きざま」というコンセプトでくくると、
私のなかでは
この作品の主人公知寿ちゃんは
『十六歳のマリンブルー』のえみちゃんの数年後であり、
『センセイの鞄』の月子さんの十数年前であるようにも思えた。
(読書の幅が狭くてスミマセン。)
(女子って、コドクなんだ。
あるいは
コドクな女子は、コドクなんだ。)
選評を読んでいくと
受賞のポイントは
1)そんな
スポイルされた
生き弱く
コミュニケーションヨワイ
典型的現代の世代というテーマと、
2)その
「些細」を描く筆致の巧さと、
3)そして
駅のホームが見える部屋
という舞台設定をつくってしまえる
アイデア力、
の
あたりのようです。
(慎太郎と龍が推してたのが印象的だった。)
同じ号のなかで
慎太郎、龍、綿矢りさの鼎談があり
そこで
村上龍が
小説とは悪夢のようなもの
と言っていた。
ならば
この作品こそ
現代の世代の白日の悪夢・・・。
と、ここまで書いて
みんなそんなにネガには読まないんだろうな、
とも思ったりして。
こんなに鬱にうけとるのは私くらいかな、
とも思ったりして。
選評で、山田詠美は
疲れた中年男性が好みそうな・・
といったニュアンスのことを言っていた。
私の場合は、喜んでは読めなかったです。
(・・・ん、それとも
山田詠美が言っていたのは
こういう私のような過剰反応のことなのかな・・・?)
さいごに
もういちど、養老センセの文章を引用。
「むずかしいでしょ、生きるって。こんな簡単なことは、ほかにないからです。動物ははじめから『生きて』います。それを籠に入れて、まったく動けないようにして、餌と水が目の前を流れてやるようにしてやる。それがブロイラーです。だれかの生活がそれに近づいたとき、見ている人から『生きてない』って表現が出るんでしょうね。(後略)」
(養老孟司 『運のつき』 マガジンハウス より引用)
投稿者 vacant : 2007年04月11日 23:59 | トラックバック