2007年12月18日

散歩する所は町から小さい流れについて少しずつ登りになった路にいい所があった。山の裾を廻っているあたりの小さな潭になった所に山女が沢山集まっている。そして尚よく見ると、足に毛の生えた大きな川蟹が石のように凝然としているのを見つける事がある。夕方の食事前にはよくこの路を歩いて来た。冷々とした夕方、淋しい秋の山峡を小さい清い流れについて行く時考える事はやはり沈んだことが多かった。淋しい考だった。然しそれには静かないい気持がある。自分はよく怪我の事を考えた。一つ間違えば、今頃は青山の土の下に仰向けになって寝ているところだったなどと思う。

・・・

そうして半世紀のあいだ走りながら
何をしていたかというと、
何をしていたのだろう。

ひとつには、村上春樹を追っていた。
ファンやストーカーのようでもなく、研究者や好事家のようにでもなかった。

好きな子を遠くから眺めるように静かに、控えめに追っていた。
廊下ですれちがっても知らないふりをするくらいに。

ずっと読まずに嫌いつづけていたことは前にも書いた。
ずいぶん若かったとき、書店で『1973年のピンボール』(注1)の出だし一行目を読んで、
ケッ、と。
それ以来、オアシスやU2と同じように勝手に忌み嫌っていた。

後学のためにと読み始めたのはここ数年のことだ。

この夏までの時点で

『羊をめぐる冒険』、
『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』、

(感想:ややスノッブな現代語で、ややトリッキーな不思議な異世界を書く、ややライトな作家。)


『風の歌を聴け』

(感想:ややトリッキーな構造で書きたがっているが、なにか時代を超えた切なさを表現しようとしている人。)

村上に少し興味をもって
『グレート・ギャッツビー』(野崎訳 新潮文庫)を読んだ。

(感想:以前日記に書いたアメリカ版赤瀬川原平。醜いのに奇麗、な本当の現実。)

そうして夏になって、
おもむろに
『ノルウェイの森』を読みはじめた。

「そういう音を聞いていると、僕は自分がこの奇妙な惑星の上で生を送っていることに対して何かしら不思議な感動を覚えた。」

「まるで世界中の細かい雨が世界中の芝生に降っているようなそんな沈黙がつづいた。」

予想外に、割に気に入ってしまった。

『夜になると鮭は』を読んだ。(レイモンド・カーヴァー著 村上訳)

(感想:こういう人を幻滅させるような人間の生態を、どこの誰が喜んで読むのだろう?と、読み始めたうちは思っていた。それでも最後まで読み終えた。それでもやっぱり不可解だった。)

『ねじまき鳥クロニクル』を読んだ。

情けない事に、シベリアの話を飛ばしながら読む癖がついてしまい、
3冊目は、かなり乱暴に斜め読みで、無理矢理最後まで辿り着いた。

知っていると思っていた世界の、知らない側面。
世界を覆っている、何かしらの不条理。

そして、作者の妙な情熱。
それらは伝わって来たのだが、
それ以上のことは理解できなかった。

がぜんムラカミ氏のことを知りたくなった。

『「そうだ、村上さんに聞いてみよう」と世間の人々が村上春樹にとりあえずぶっつける282の大疑問に果たして村上さんはちゃんと答えられるのか? 』

を読んでみた。

読んだ直後、この本について、いろんなことを書きたくなった。

そうして今
『キャッチャー・イン・ザ・ライ』
を読みはじめた、

自慢じゃないが、生まれてはじめて読んだ。

ライ麦畑でつかまえて
といえば、思春期の少年の物語、とよく紹介されている。
ちょっと不良で、でも純粋な少年が
世の中への不満や、間違った大人の世界への反抗心をつづった物語、
なんて紹介されていることも多い。

しかし、と、読み終えた今、思うに、
それじゃまるで
青空のように爽やかな少年少女青春小説みたいじゃんか、よ。

ずっとこの小説を誤解してた、よ。

・・・

音楽は
エドゥ・ロボや、ブッカー・アーヴィン、
レディオヘッドの聴き直し
ショーター時代のマイルス、
そしていまさらカフェ・アプレミディ(笑)のお世話に。

なりつつも、一方では
ポストロックを中心に掘り進め、

掘っているうちに、ポストロックの穴の向こうに
「シューゲイザー」の姿が見えたのだった。

逆に言えば、もう15年以上前のシューゲイザーに、
ポストロック側から
掘り着いてしまった。(注2)

で、
生まれて初めて聴いたマイブラ『loveless』。

電車の中で、
このアルバムと『キャッチャー・イン・ザ・ライ』があまりに似ているので
読みながら
前頭葉のあたりが、くらくらと気持ちの悪い酩酊感に苛まれた。

そうなんだよ。
『キャッチャー・イン・ザ・ライ』のサントラを選ぶなら、
いちばんふさわしいのはこれ。
このアルバムをもし文章にしたなら、サリンジャーになるにちがいない。

『キャッチャー・イン・ザ・ライ』のなかで好きなのは、

アイススケート場で
サリーとの会話がとことんすれ違うところ。

「『ねえ、ちょっと怒鳴らないでくれる』とサリーは言った。でもそれはすごく変な言いぐさだった。だって僕は怒鳴ってなんかいなかったんだから。」

それから、家で、フィービーに
まるでカウンセラーのように導かれるところ。

「『なんでもかんでもが気に入らないのよ』とフィービーは言った。『気に入っているものをひとつでもあげてみなさいよ』」

そして、ラストの大雨の回転木馬のシーンだ。
(ミスタ・アントリーニ先生の長いご教訓も、意外と嫌いではない。)

サリーは、常識の代表で、つまり女の子の代表だ。

フィービーは、兄弟という最後の理解者であり、純粋さと希望の象徴。

はじめは
ごく普通の退屈なアメリカ小説だとタカをくくって
読んでいたが、
途中から、
さっき書いたような気持の悪い酩酊感に襲われだした。

こういう本は、はじめてだ。

だれかのスピーチに、その場にいる全員がつくり笑いを浮かべながら拍手を続けているような、
そんな世界を頭痛がするほど忌み嫌っている、
だれのなかにもあるそんなココロの行方を追った本。

「おかげでみんなは二日くらいそれについて考えて、あれこれと気に病んだりもしちゃうわけだ。そんな落書きをしたやつを殺してやりたい、と僕はひとしきり考えた。」

・・・

たとえば、ザ・スミスでも
シューゲイザーで言えば、ライドでも、
文章なら、梶井基次郎でも。

それらは、みな、青年男子の悩みだ。
それならわかりやすい。
そんな作品なら、まだ幾らでもありそうだからだ。

でも、『キャッチャー・イン・ザ・ライ』は
大きな青年の悩みじゃないんだ。
なんて言うんだろう、第二次性徴以前の悩み?

まだ、男でも女でもないときに感じてしまった、
世の中の穢らわしさ、それへの強烈なショック。

ある意味わかりやすい青年男子の悩みとちがって、
奇っ怪なシロモノだ。
大人の僕にはもう完全には想像できない。

『loveless』の、外国のポルノを見てしまったときのような奇っ怪なざらざら感は、
和モノのバンドには醸し出せないものだろう。

そのざらざら感が、
この本の理解不能な異和感に
とても近しく感じるのだ。

・・・

J.D.サリンジャーって、
今思えば
『ナイン・ストーリーズ』もそうだったよなぁ。

穢らわしさにやられるピュアネス。
ピュアネスが穢らわしさにやられるところを
読者は見続けなければいけない。
そこからくる悪い酩酊感。

『ナイン・ストーリーズ』もそうだった。

ただ『ナイン・ストーリーズ』は
小説のところどころに、
翻訳のせいか原文のせいか
・意味のわからなさ、
・軽い不条理感、
・東洋思想のような難解さ、
・不明瞭なあいまいさ、
があったため、
さいわい肝心なものがよく見えず
(明け方の夢のように)、
心に強いショックを受ける事はなかった。
まあその分、かえって悪酔いは長く続いたわけだけど。

『キャッチャー・イン・ザ・ライ』は、
明快な文章に、明快な村上訳で、
衝撃はうけたけど、
二日酔いのように長くは続かなかった。
意味不明瞭でシュールな悪酔いに悩まされる事はなかった。


この本を読んで、
さっき挙げた『夜になると鮭は』のような本の
存在理由がわかった気がした。

これは『キャッチャー・イン・ザ・ライ』のオトナ版だ。
そして、世の多くの小説は
『キャッチャー・イン・ザ・ライ』のオトナ版と言えるのかもしれない。

『ノルウェイの森』だって、
おそらくこの世界の影響下にあるのだろう。

『グレート・ギャッツビー』をコドモにしたのが、
『キャッチャー・イン・ザ・ライ』?
それをオトナにしたのが、ムラカミ?

・・・

2000年に読んだ
『サリンジャーをつかまえて』
という文庫本のことを思い出した。

サリンジャー自体が、そして彼の伝記でもあるこの文庫本自体が、
やっぱり
ピュアネスが穢らわしさにやられるところを見てしまった不鮮明な悪い夢
のような読後感だった。


「で、僕がそこで何をするかっていうとさ、誰かその崖から落ちそうになる子どもがいると、かたっぱしからつかまえるんだよ。つまりさ、よく前を見ないで崖の方に走っていく子どもなんかがいたら、どっからともなく現れて、その子をさっとキャッチするんだ。そういうのを朝から晩までずっとやっている、ライ麦畑のキャッチャー、僕はただそういうものになりたいんだ。」

・・・

注1)この、ケッと思った本を、ずっと『風の歌を聴け』だと
思い込んでいたのだが、実際『風の歌を聴け』を読んで記憶の誤りを知った。
もしかしたら『1973年のピンボール』でもないのかもしれない。
村上春樹ですらなかったら、と思うと大いに心もとない。

注2)ボーズ・オブ・カナダ『twoism』日本盤CDのライナーによると、
英NME誌がボーズ・オブ・カナダを評して曰く、
「ケヴィン・シールズが『loveless』をつくったあとにやりたかったバンド」
とのこと。


投稿者 vacant : 2007年12月18日 01:34 | トラックバック
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