或朝の事、自分は一疋の蜂が玄関の屋根で死んでいるのを見つけた。足を腹の下にぴったりとつけ、触覚はだらしなく顔へたれ下がっていた。他の蜂は一向に冷淡だった。巣の出入りに忙しくその傍を這いまわるが全く拘泥する様子はなかった。忙しく立働いている蜂は如何にも生きている物という感じを与えた。その傍に一疋、朝も昼も夕も、見る度に一つ所に全く動かずに俯向きに転っているのを見ると、それが又如何にも死んだものという感じを与えるのだ。それは三日程そのままになっていた。それは見ていて、如何にも静かな感じを与えた。淋しかった。他の蜂が皆巣へ入ってしまった日暮、冷たい瓦の上に一つ残った死骸を見る事は淋しかった。然し、それは如何にも静かだった。
・・・
「窓を大きく開け、夜のあいだに積もったほこりや、いろんな汚れを外に出した。それらは静止した空気の中に浮かんだり、部屋の隅っこや、ブラインドの隙間に潜んだりしていた。机の角には蛾が羽を広げて死んでいた。羽をいためた蜂が一匹、窓の敷居の上を、木枠に沿ってよろよろと歩いていた。羽を動かしてはいたが、その音にはいかにも力がなかった。それが無益な試みであることは本人にもわかっているようだった。終わりが近づいていた。これまであまりに多くの使命を果たしてきたのだ。巣に戻るだけの力はもうない。」
(『ロング・グッドバイ』レイモンド・チャンドラー 村上春樹訳 早川書房 より)
村上春樹を読んでいたあいだ、途中、ふとしたキッカケで
開高健を読む機会があった。
二人の文体の
あまりのコントラストに
因縁すら感じた。
例えば
短編集『ロマネコンティ・一九三五年』。
力強いが、独白的。
断定的なのに、苛ついているような文章。
まったくナンセンスな喩えだけど、
NHKで「世界地獄めぐり紀行」なんて番組がもしあったら
そのレポーターの
モノローグを聞かされているような感じ。
旅、半分。地獄、半分。
香港の『玉、砕ける』、サイゴンの『飽満の種子』、ヴェトナムの『貝塚をつくる』
と読みすすめる。
NHKと書いたのは
ある意味、皮肉だ。
まだ日本ではあまり知られていない
諸外国の文物を、
遣唐使よろしく
日本の善良な一般大衆のもとに届け、
刺激と興奮を与えるのが
この作家の使命にして取り柄のようにも見えてくるからだ。
そうした後に、4つめの短編
『黄昏の力』が出てくる。
一転して、話の舞台は、日本。
ごく退屈な日々についてが
醜悪美((c)金子國義)をもって語られる。
これは、村上さんの対極だなあ。
こういうものに、村上さんは興味あるのだろうか。
村上さんだったら、同じことをどう書くんだろうか。
それとも小説というもの、どこかで結局同じことだったりするんだろうか。
志賀直哉のように文章を書く人は
その後も何人もいたし、
いまだっているかもしれない。
けど、開高健のような文章を書く人は、
いま
いないんじゃないかなぁ。
「ああいう、漢文的に書く人は、もういないね。」
とある人が答えてくれた。
・・・
別の時、その人が感嘆していた
村上訳チャンドラーの一節。
「瞳は矢車草のブルー、あまりない色だ。まつげは長く、見えるか見えないかというくらいのほのかな色をしている。」
投稿者 vacant : 2007年12月22日 19:16 | トラックバックWhat is here it is an interesting piece of information. But first of all I must salute all every one. Hello. And second I must say that I m thinking to post http://www.rockasho.com/naka/archives/003876.html on my Hi5 profile. And this because in the end I found what I was looking for. What you say here is really respectable sharing. In the second I saw this tittle, 長尺日記:, on my google search I was very happy. It is possible I found something that have the same ideea here http://www.xfly.ro, I'm not sure but I thing it was the same. My regrds
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