押し迫った暮近い日である。風が坂道の砂を吹き払って凍て乾いた土へ下駄の歯が無慈悲に突き当てる。その音が髪の毛の根元に一本ずつ響くといったような寒い晩になった。坂の上の交叉点からの電車の軋る音が前の八幡宮の境内の木立のざわめく音と、風の工合で混りながら耳元へ掴んで投げつけられるようにも、また、遠くで盲人が呟いているようにも聞えたりした。もし坂道へ出て眺めたら、たぶん下町の灯は冬の海のいさり火のように明滅しているだろうとくめ子は思った。
客一人帰ったあとの座敷の中は、シャンデリアを包んで煮詰った物の匂いと煙草の煙りとが濛々としている。小女と出前持の男は、鍋火鉢の残り火を石の炉に集めて、焙っている。くめ子は何となく心に浸み込むものがあるような晩なのを嫌に思い、努めて気が軽くなるようにファッション雑誌や映画会社の宣伝雑誌の頁を繰っていた。
(『家霊』岡本かの子 /ちくま文庫「名短篇、さらにあり」所収)