2008年03月24日

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福居伸宏 展 "ジャクスタポジション"

2008年03月08日 ~ 2008年03月29日  小山登美夫ギャラリー


■地明かりというウイルス、あるいは外灯

夜中に大川の土手を走っていると、

河沿いに思い思いに建つ家々の

光を発する窓からは、

露らわになった部屋の中の様子が

手に取るようにわかって、

蛍光灯とブラウン管に照らされる食卓、

白熱灯に照らされるソファ、

祖父、あるいは孫

あるいは男の足。

川の遥か上流の長い鉄橋を、

夜に光を放つ芋虫のような電車が滑るように流れていく。

ヒッチコックの『裏窓』や

大友克洋の『童夢』を知らなくても、

高速道路から見つけたビルの

こんな時間でもまだそこだけ明かりがついている階の

蛍光灯に照らされた冷たいデスクが

生々しく想像力を掻き立てるときの気分は知っているはずだ。

あるいは

磐越西線の夜の鈍行列車、

この土地に縁もゆかりもなく、車窓にはただ通り過ぎるだけの土地。

墨を流したような風景のなかに

時折、農家の平屋の窓から、夕餉の卓袱台を囲む家族の姿を

垣間見たときの気分なら

知っているはずだ。


福居伸宏 展については、

実際に見る前から気になって

前にもこの日記で予告篇的なことを書いた

そのときは

見る前の当て推量で「存在論的な写真」なんて書いたのだが、

実際にみて、いい意味で裏切られた。

よく

ヨーロッパの村の家々は、

その土地で採れる材料だけを使って建てられるから、

屋根の色、壁の材質、

どの部分にも、全体に町並みの統一感がある、

なんて話をきく。

物流の発展した現代では

そのような

環境の制約による自然な統一感

というのは、なかなか起こりえないことだろう。

ましてや、無節操な現代日本では

まったく考えられない話なのだが、

福居さんの

『Multiplies』というシリーズを見ながら、

現代日本の街並みにも、

「素材の統一感」

といえるものがあるのではないかと

知らされた気がした。

つまり

都市部の夜

という名のフィルターが

冷たくイビツな建物たちに

ある何らかの統一感を与えている。

それは

マンションや公営住宅の外壁素材の統一感というよりも、

壁々が虚ろに反射する

光の統一感だ。

その発光源は、

外灯であり、

信号機であり、屋内の蛍光灯であり、高層ビルの赤色灯であり。

ようするに

…環境の制約による自然な統一感(!)。


新作といわれる

『Juxaposition』のシリーズのほうに足を移す。

そこにあったのは、

私が勝手に期待していた「ものの存在感」などという

形而上的な感動なんかじゃなく、

「かたち」や「色」への感動だった。

なぜだろう。

よく

「没個性」「無機質」といわれる都市。

現代日本の都市。

そのなかに、

こんなに美的な

「かたち」や「色」がある。

マンションの部屋からもれる灯りに

これだけ豊かな色のバリエーションがある。

外壁に淡く反射する信号機の青、

ガラスに映り込む高層ビルの赤。

冷たい公園の階段の

タイルのパターンに、

手すりの鉄柵のパターンに、

これだけ興味深いカタチがある。

(『Multiplies』にあった金村修的電線が

『Juxaposition』では姿を消している。)

マンションの白い壁タイルに

さまざまな地明かりが重なって

複雑な光と影の階調をなしている。

ごく当たり前の景色に見えて、

それでいて

杉本博司の実験作

白の階調シリーズ

を彷彿とさせるような

美的な景色。

私はまるで油彩のタブローの筆跡を確かめるがごとく、

公営住宅の光と影を

1階、2階、3階…と眼で追っていく。

コトバでは

陳腐になってしまうのだが、

既に日常で見ているはずの風景に

新しく美的価値を付加する。

そんな作品なのだと思った。

(それが、「汚いけど綺麗」派

特徴的なのは、

それでいて

妙な過剰さのないところだ。

荒木経惟でも

金村修でも

アンドレアス・グルスキーでも

住宅都市整理公団でも

かならずどこかに過剰さがある。

(過剰なのは「自己」?「作家性」? なんだろう?)

それが

福居伸宏には、なぜだかないのだ。

しいて云えば、

初期モンドリアンのような。

そんな

低体温、

無彩色の。

「パトスのない世代が見る」風景とでも云えば

いくらかでも

この気持ちに近いだろうか。

ギャラリーの

展示作品リストに

売却済シールが唯一2枚ついてた作品、

『Juxaposition』No.2は、

まるで最盛期のモンドリアンが

しばしば画面の端に描いたような

小さな色の矩形が、

夜のビルに

散りばめられたみたい…。


夜中に大川の土手を走っていると、

真っ暗な川面に、

くたびれた小型船が係留されているのが

辛うじてシルエットでわかる。

そんなとき思うのだ。

真っ暗なあの船のなかで

誰にも気付かれずにずーっと置かれたら

どんな気分だろうと。

巨大な鉄橋の下、

真っ暗な河川敷。

あるいは高速道路から見える

まったく人の気配のない真っ暗な精錬工場、

あるいは

線路と高速道路と用水路に塞がれた

都会の死角のような

灯りもなく崩れそうな廃屋。

そんなところに

自分の身を置く

想像に

ほんの数秒、耽ってみる。

「日常の退屈さをいかにしのぐかが、現代の人間の根本的な問題である。」

と、島田裕巳が言う。


昔、ひょんなことで

GA645というカメラを与えられ、

渋谷から大久保あたりまで、ふらふら撮った。

神宮前の交差点は

GAPなんか無くって、ただのコインパーキングだった。

冥い夜空の下

寂寥とした外灯が、

アスファルトに反射して

ちょうどこんな感じだったのを思い出した。


工藤キキさんのお取りまきたちの

冷たい視線に

追われるように清澄の路地へ出た。

日の落ちた

春宵は、

おそろしいほど

福居さんの写真の通りに見えた。

…これこそ、

写真家の狙い通り。

投稿者 vacant : 2008年03月24日 22:52 | トラックバック
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