穂村弘氏インタビュー(一九九八年七月 新宿にて) より
http://www.koshinfu.com/homu.html
穂村 確かに現に書かれたものがすべてですよね。現に言葉になったものがすべてだから、必ずそれについて語るしかないし、それ以外のものを語ろうとしてはいけないんだと思うんですよね、全くその通りなんだけど。ただ、現に自分が言葉を出して行く生成の現場で自分の中に感じる体感っていうのがあるでしょ。それがさ、この間も漫画家の人と喋ったんだけど、漫画家だったら、既に身につけたデッサン力とか構図とか、画力みたいなものっていうのは、もうある程度の技術だから絶対なくならないですよね、とりあえず。必ずある。で、言葉を使う歌人なら歌人で、ある修辞力みたいなもの、比喩の力みたいなものは、まあなくならないですよね。だけど、そっちから、つまりドミノ倒しで必ず一方からしか倒れないみたいに、画力から、あるいは修辞から、一種の歌なりひとつの作品を立ち上げるっていうことはやっぱりできないと思うんですよね。やっぱり始めにあるのは「さみしくて気が狂いそう」とか、そっちなんですよ。非常に乱暴な言い方になるんだけど、やっぱり僕は、さみしくて気が狂いそうな火の玉のようなやつがいれば、ほとんど何のテクニックもなくても、いい歌はやっぱり書けちゃうだろうと思う。俳句はわかんないですよ。短歌に関しては、まずそうだろうと思う。むしろ自分の実感として、本当に自分がさみしくて気が狂いそうな時は、自分がそれまで持ってた修辞力とかは溶けちゃうんですよ。で、新たにその場で生成しますよ、その場一回限りの比喩や、一回限りの言葉との出会いみたいなもの。だから、非常に語るのが難しい。一回限りのものができたとたんに、できた側からしか見えないから。でも、自分の中にあって、本当にその歌を生み出した時の意味っていうのは、その生成の感じですよね。
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穂村 適切な具体例が思いつかないなあ。ただ、感覚的には、やっぱり分散してチップを置かないようにまず考えるんですよ。チップを置ける場所は一カ所だって必ず思う。五七五七七ってけっこう長いから、二カ所ぐらいに置けるんですよ、チップがね。でも当たったら半分、それはね、絶対持たないっていうことを体験的に知ってるから、一カ所、たとえ外れてもここに自分はチップを置くっていうことをまず絶対決める。それもさあ、ほとんど同じ所に置くんだよね、僕はいつも。「お前が欲しい」とかさ、「さみしくて気が狂いそう」とか、全部、ほとんど同じですよ、それって。「お前が欲しい」と「さみしくて気が狂いそう」って同じ場所だから(笑)。だからそれはもう決まってると言ってもいいんだけど、でも一応、そこに置くんだっていうことをね、肝に銘じるんですよ。一カ所だけに置く、二カ所に分散してはいけない。「お前も欲しい、お前の妹も欲しい」っていうのはいかんと(笑)。
それでね、いろいろ勇気を出すわけですよ。「やは肌のあつき血潮にふれも見でさびしからずや道を説く君」とか、ああいう馬鹿勇気を持った歌を思い出してね、びびった歌はもう全然駄目って思っていて、びびるのは絶対駄目だ、でもね、そういうふうにすごく思わないと必ずびびるから。必ずびびるし必ず恥を考えるから、恥もいかに恥を忘れるかっていうか、人が読んで、「わっ、なんだこれ」って言うような方向に、チップを置くってそういうことだってこと。いつもいつもものすごく新鮮に考えてないと必ずそれを忘れるんですよね、人間っていうのは。だから、それだけをいつもまず忘れないようにする。そうすると言葉が、つまり五七五七七が、一発でびしって出ることはないんですよ、僕の場合。だからある程度言葉が生成しかけた時に、お前が欲しいみたいなものを、言葉としての自然な生成感に任せていた時に、お前が欲しいがいつのまにか雲散霧消しているケースがすごく多いんですよ。言葉の自動的な機能、言葉としてこれが適切、これとこれがお洒落とか、これとこれが素敵、みたいに、その素敵さに身を任せていると、最初の、こう右翼が短刀を持って人を刺しに行くような感覚が、いつのまにか短刀がなくなって、撫でに行っているっていうことがある。そうしたらそれは駄目だ。そうしたらそこで、一旦言葉が生成しかけちゃうと、部分的に駄目はなかなか出せないから、ほとんど全駄目になります。
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穂村 でもすごく難しいですよね。言葉の問題だから、必ず言葉を媒介にしてるんだけど、でもね、どこかで魂は伝わると思ってるわけ。最近、すごく変な話なんだけど、思うのはね、家でぼーっとしている時ね、例えば広島県とかでね、誰かが夢を失ったと。それまで夢を持っていた人間が夢をなくしたら、なんかわかるような気がするのね(笑)。
村井 それは知ってる人じゃなくてもいいわけですか。
穂村 うん。誰かがね、夢をなくしたやつはわかるような気がして、そうすると怖いわけですよ、自分がそうなるのが。だから、俺だけは今はないものに対する憧れとか夢を絶対なくさないぞって思うわけ。夢さえなくさなければ、みんなわかるに違いない、ってすごい楽天的なの。わかるに違いないっていう感覚はすごくある。だから、歌なんかも特にそうなんだけど、やっぱりわかるんだな。人の歌を読むと、こいつはもう心がお辞儀してるやつだとか、こいつはなんかを曲げてるやつだとか、そういうことが。それって自分がわがままだとか、人格が破綻しているとか、くだらないとかっていうこととはちょっと違っていて、そういうことじゃなくて、一念発起とか、心を保つとかいうことで大丈夫なエリアだと思う。夢をなくさないって思ってればなくさないと俺は思うわけ。夢をなくしてもいいと思ったやつだけが夢をなくすと思ってるわけ。だからいくら俺が、デニーズで千回もハンバーグを食ったとか、女にだらしないとか、そういうことがあっても、それはその場で、びびらずにそれを提示すれば、それはそうだっていうふうにみんなわかっちゃうわけだし、それはだって、そうだからしょうがないじゃん、もうさ。それはそれで。
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村井 等身大とか自然体を信じないっていうのは、非常に意味が広いわけですけどね、例えば言語表現っていうのは等身大にはなり得ないわけですよね、当然。自然体にもおそらくなり得ない、ある操作、言語化の操作が加わってるわけですから。例えば私は自然体で俳句を作ってますとか、短歌の人はそういうこと言わないかもしれないけど、そういうようなことを言う人も俳人にはいそうだな。そういう認識自体を信じないということでしょうか。
穂村 その認識を信じない。例えば、前もちょっと書いたことがあるんだけど、吉川宏志君っていう、すごくいい歌を作る若い歌人がいるんだけど、歌集の後書きで、自分がある時、少年の時だったかな、夜明けの蝉が脱皮する様子を見たことがあって、あの感じが忘れられないということを書いてたんだけど、僕はそれは本当だと思うのね、それがすごく印象深かったってことは。でもさ、歌集の後書きにそれを書くっていう、その心がどうもなんかピンとこないって言うか、要するに僕はそのことに否定的なんだけど、そう書かれた時、誰がそれを否定できるんだ、って思うわけ。ああ、あの時生命が誕生したっていうのを、歌集の後書きに書かれて、誰が、そんなものくだらないって言えるんだ、と。そんなこと書くやつはくだらないって、誰も言わないなら俺が言ってやるぜ。
あと、妊娠してこの三年間の歌を集めましたと。その三年間は妊娠出産期に当たっていてね、お腹の中に子供がいて、台所の窓から見た木々の緑がすげえ綺麗だったとかいう後書きがあるんだ。そんなのくだらないって誰が言えるんだって思うでしょ。だって本当だと思うもん、それは。でも、それが本当なのとそれがくだらないのは両立するよね。
さっきのパズルの話もそれと同じで、そういう形の夢が存在することは認めるけど、違う、俺が考える夢は全然違うね、そんなのは、っていう感じがするわけですよ。それだって夢で有り得るんだけど、そういうふうに書くことによって、非常に夢というものを危うくするような感じがするっていうか。前登志夫っていう歌人がいてね、第一句集のタイトルは『子午線の繭』っていうすごくいいタイトルなんだな。そこには夢があるでしょう。ところがある時から山に籠もって、なんか吉野の山神とか言って、自然のアニミズムがどうしたとかって言い始めて、一気に順接になっちゃてさ、世界に対して。夢がなくなっちゃったんだよ。動物や木々の心がわかるなんて、夢でも何でもないんであって、そういう問題じゃない。木々の心もわかるだろうけど、それは夢じゃないって俺は思うのね。
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穂村 いちばん大事なものから順番に考えたいっていう気持ちがあって、三番目とか四番目だとかをまず考えたくないっていう。いちばん生きて行く上で大事なことから考えて行きたい。でもわかんないんだ、何が大事かって。別に短歌の中にもいちばん大事なものはあるし、お料理の中にもあるし、サッカーの中にもあるって、それはもちろんあるんだな。で、それぞれのやってることが全然ばらばらでも、やっぱり夢のあるやつと夢のないやつがいて、そうするとやっぱり夢みたいなことになる。今は存在しないものに対する憧れみたいなもの。今は存在しないものに対する憧れを持とうとすると、気が狂いそうになるんだ、必ず。で、今は存在しないものに対する憧れはあるけど、気は狂いそうじゃないっていうやつを信用しないんだよね。
でもね、そういうふうに思ってても、そういう次元ではいくらでも自分を鼓舞したことが言えるけど、現実問題、じゃあ次のひとつの歌を作る時、どういう手法があるんだとか、次の女との関係をどういうふうに素晴らしくできるんだとか、友達との友情をどういうふうにできるのかとかね。だから、気持ちはあるんだ、もっと仲良くなりたいっていう気持ちがいつも。でもさ、それが、どういうふうにその人に対して働きかければいいかということはわからないんだけど、そのわからないってことと夢みたいなものはやっぱり関係してるんじゃないのかと思う。もしわかるんなら夢はないと思う。次の瞬間自分がどんなことでもできて、その中に潜在的には素晴らしい行いや素晴らしい作品があるにも関わらず、大抵すげえ凡庸なことを言ってしまって、大抵くだらない作品を書いてしまうことの連続ですよね、体感としては。でもそのことと夢っていうのはすごい関わっているような気がするんですよね。
自分の好きなバンドがあるでしょ。そういうところのボーカリストっていうのは、何回も、百回も千回も同じ歌を歌ってるじゃん。でもさ、必ずスーパースターっていうのは、その次の、今から歌う一回を今までに一度もなかったほど素晴らしいものとして、素晴らしいっていうのとも違うけど、今までに一回もそのようには歌わなかったものとして、この世に一度も存在しなかったものとして、歌おうとしてますよね。眼がもうそう言ってるし、そして大抵失敗するんだ、それは。だって千回歌ってるのに、その千回の中で、次歌う一回が最高である可能性がすごい低いもんね。失敗するんだけど、でもわかるんだ、それをやろうとしたっていうことは。それがやっぱり感動するっていうか。
そのためのテクニックっていうかね。例えば僕、ブルーハーツが好きだったんだけど、いろんな変なことをやってたよね、見に行くとさ。すげえくだらねえなと思ったのは、「次は何とか」とか言って曲名を言って、違う曲を歌い出すとかさ(笑)。もう、すげえ小細工なんだ、でもわかるんだよ、何がやりたいか。わかるよ、俺、それは。失敗するんだけどね。あと、歌い始めてさ、急に歌い止めたりして、靴紐を結び直したりするんだ。歌う前に靴を履き替えたりして、途中でね。失敗するんだ、絶対。でもすげえわかる、その感じっていうのが。その時の伝達の感じっていうのも、魂が伝わるっていうか、巨大な火炎球を投げ付けられたような感じがして、その前に、どのような揶揄もないっていう感じ。それを揶揄するスタンスは、もう有り得ない。