6月のある日、
書籍売り場で
ふと足が止まった。
平積みの新書には、なぜか文章の書き方に関するものが
目につくほど多い。
それらの何冊かを
いつのまにか、吟味するように
立ち読みしているうち、
ある一冊に引き込まれた。
そして、買った。
引きずり込まれるように、読んだ。
作者は、まだ新しい、検索してもこの本しか出てこないような
無名の人。
これだけ生きてきてなんですが、
目から鱗が落ちた本、
鈴木信一著『800字を書く力』をご紹介します。
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(鈴木信一『800字を書く力』祥伝社新書 より引用)
個々の文を頭に放り込んで、読んだことにしてしまう。
《昨日は一週間ぶりに晴れた。僕は友人と一日中外で遊び回った。夜になって発熱した》
何が書かれてありましたか。いや、ずばり聞きましょう。「僕」が「一日中外で遊び回った」のはなぜですか。
“昨日は待ちに待った晴れの日だったから、うれしくて遊んでしまったわけでしょ?”
たとえばこんなふうにすぐに答えられた人は、読めた人です。言われてなるほどと思った人は、読めなかった人です。教育の現場に出ていますと、このことを読み取れない生徒がじつに多くいることに気づきます。
読めた人と読めなかった人では、何が違ったのでしょう。
読めた人は、事柄よりも、それがどういう論理で結ばれているかに関心が向いたのです「晴れた」や「遊び回った」ではなく、「一週間ぶり」や「一日中」に重きを置いた。つまり、読める人というのは、文と文をつなぐ言葉(次の文の波線部分)を補う癖がついているのです。
《昨日は、一週間ぶりに晴れた。(だから、うれしくて)僕は友人と一日中外で遊び回った。(しかし、それがたたったのか)夜になって発熱した。》
一方、読めない人というのは、事柄だけが了解されればそれでよしとします。「晴れた」「遊び回った」「発熱した」という情報だけを、漠然と頭に放り込む。それで読んだことにしてしまうわけです。
誤解のないように言っておきます。読むということは、言葉と言葉(文と文)の関係に気づくことです。つまり、隣り合った文と文の因果関係を探ること——、これが読解の第一歩ということになります。事柄をいくら仕入れても、論理に目を向けないなら読んだことにはならないのです。
“そんなこと当たり前のことじゃないか”と思った人がいたかもしれません。しかし、ちょっとした文章ならともかく、込み入った文章を読むことを求められると、この原理を踏み外す人は必ず出てきます。
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