2011年1月1日(土)読売新聞「編集手帳」欄 より
買い物に出た年の瀬の駅で、乗るつもりの電車が遅れた。飛び込み自殺だろうか、ホームのデジタル掲示板に「××駅で起きた人身事故のため…」と、遅れを詫びる案内が流れた◆そうめずらしくもない出来事である。光の文字が流れる数秒を唯一の接点に、わが人生とかかわった人の名前は知らない。壁に掛けた真新しいカレンダーを眺めて、考えるときがある。ほんとうは未来のどこかで出会うはずの人ではなかったか、と◆<新年は、死んだ人をしのぶためにある>。詩人の中桐雅夫は書いた。<心の優しいものが先に死ぬのはなぜか/おのれだけが生き残っているのはなぜかと問うためだ/でなければ、どうして朝から酒を飲んでいられる?>(『きのうはあすに』)◆小学6年生の少女が孤独に耐えかねて自殺した事件を昨年、何度か取り上げた。中学や高校の友だち、恋人、伴侶、生まれてくる子供…多くの人々が未来で彼女を待っていたに違いない◆年の初め、新聞の片隅にあるこの小さな欄で、誰に何を語ろう。いまはまだ名前も知らない人よ、待ちぼうけはさせないで——と、ほかに浮かばない。