内田樹『呪いの時代』(新潮社)より引用
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あらゆる階層社会では、「この社会システムはアンフェアだから努力しても報われない」と思っている人々が社会下層を形成し、「努力すればそれなりの成果がある」と信じている人々が社会上層を形成する。必ず、そうなります。
どれほど能力があろうとも、素質に恵まれていようとも、自分の能力や資質は「決して適切には評価されないだろう」と確信しているひとは努力しない。努力することができない。
「努力しても意味がない」という言葉を、あたかも自分の明察の証拠であるかのように繰り返し口にさせ、その言葉によって自分自身に呪いをかけるように仕向けるのが、格差の再生産の実相なのです。
ただでさえ、学歴でも職歴でもハンディを負っている人たちが「学び」を拒否すれば、もうこの先プロモーションのチャンスはほとんどありません。逆に、どのようなアンフェアな社会システムであっても、努力を怠らなければ、思いがけないところにチャンスはある。
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だから、僕たちにとって喫緊の課題は、妄想的に構築された「ほんとうの私」に主体の座を明け渡さず、生身の、具体的な生活のうちに深く捉えられた、あまりぱっとしない「正味の自分」をこそ主体としてあくまで維持し続けることなのです。しかし、そのぱっとしない「正味の自分」を現代日本のメディアは全力を挙げて拒否し、それを幻想的な「ほんとうの自分」と置き換えよと僕たちに促し続けている。
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他人が見ている私とは違うところに「ほんとうの私」がいる。それこそが「真正の私」であり、世間の人間が見ているのは仮象にすぎない、と。だから、「世間の人間が見ている私」の言動について、「ほんとうの私」は責任を取る必要を感じない。
「自分探しの旅」というのはもともと中教審が言い出したことで、政治主導のイデオロギーですけど、政治家自身が自分で唱導してきたイデオロギーの虜囚となってしまった。「ほんとうの私」こそが私の本態であり、みんなが見ているのは「仮象の私」であって、そんなものについてオレには責任を取る気はない、と。だから、政治家の言葉が軽くなった。
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極端な話ですが、ほんとうに彼が現実の待遇や生活に不満であったのなら、彼は職場の上司を刺し、職場近くで彼が具体的に見て、その生き方を羨望している生活者たちを襲ってもよかったはずです(よくないですけど)。
けれども、彼はそうしなかった。それはこの殺人の主体が現実の人間ではないからです。
殺人の犯人は「ほんとうの私」だと思っている肥大した自尊感情そのものです。もっと尊敬されるべきであり、もっと厚遇されるべきであり、もっと愛されるべきであると思っている「私」が、その「当然私に向けられるべき敬意や愛情や配慮」の不足に対して報復した。
だから、この事件が徹底的に記号的なものになったことには必然性があったということになります。7人の死者は、「彼」からの「キリング・メッセージ」です。そのメッセージは「この殺人事件の意味は何だと思う?」とメディアに向けて問いかけています。そして、マスコミはまさに「彼」の思惑通りに、「いったいこの事件を通じて、彼は何が言いたいのだろう」と論じ始めました。
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就職情報産業を悪く言うつもりはありませんが(もう十分言ってますけど)、このビジネスが「どのような仕事に就いても、『これがほんとうに私の天職なのだろうか』という不安から決して自由になれない人々」を量産することによって利益を上げるビジネスモデルであることは自覚しておいた方がいいと思います。
つまり、「婚活」ビジネスというのは、一度でも「赤い糸で結ばれた世界でただひとりの人がいる」というイデオロギーを内面化してしまった人間に対して生涯にわたって、結婚に関わる全ての活動に課金できるシステムなわけです。
でも、小津安二郎の時代までは、「結婚しなければならない」というプレッシャーは今とは比較にならないほど強かった。このときマッチメイカーのおじさんおばさんが駆使するロジックは「婚活」ビジネスが使用する「あなた自身の唯一無二性」「主体性」「自己実現」に軸足を置いたロジックとは全く別のものです。まるで逆です。
「あなただって、それほど卓越したところのない、普通の人間なんだから、あれこれわがまま言わずに、このあたりで我慢しなさい」と、その人の「標準性」「凡庸性」を強調する。
そうやって若者たちを「普通の市民」の枠の中に押し込んでいく。「あなたは普通の人である」、それゆえ「普通の人と結婚すればよい」、そうすれば「普通の幸福が得られるであろう」というあまり夢のないワーディングで結婚に追い込むわけです。
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「自立せよ。自分らしく生きよ。妥協するな」といったタイプの「自己決定・自己責任・自分探し論」というものが80年代から官民あげて国策的に展開されました。けれども、このイデオロギーが階層下位に対して選択的に宣布されたということを忘れてはいけないと思います。階層下位の人々に対して「連帯せよ」ということをアナウンスした人はほどんどいなかった。
ちょっと考えればわかるはずですけれど、弱く幼い人間が連帯の技術を知らぬままに、誰の支援もなしに「自分らしさ」なんか追求していたら、社会的に下降する以外に道はありません。「自分らしさイデオロギー」は、たしかに表層的にはきれいな言葉で飾られていますけれど、実践的には、アドバンテージのない環境で生まれた子どもたちから社会的上昇のチャンスを奪い、社会的下位に釘付けにするものです。
弱者は連帯しなければならない。その当たり前のことがこの20年間以上言い落とされてきた。弱者の手助けなんかしたら、自己利益の追求の邪魔になる。そういう面倒な仕事は行政がやるべきだ。そういうクールで利己的な発言を人々が平然と口にするようになってきた。
別に、それで社会がどんどん住みよくなるというのなら、そういう発言を続けられてもいい。でも、実際にはそうなっていない。弱者たちが口々に「私は自己利益だけを追求する。私自身、競争的環境で不利なポジションにいるのである。ほかの弱者の支援をしている余裕なんかないね」と言い出したせいで、すでに「共倒れ」が始まっている。「自己決定・自己責任・自分探し論」が支配的なイデオロギーになった社会では、階層の固定化が起き、富が少数の強者連合に排他的に蓄積されているという今日の事実がそれを示しています。
自分の利益だけしか配慮しない利己的個体は、この社会では階層下位に釘付けにされる。そういうルールで僕たちはゲームをしている。べつに誰かが決めたわけじゃなくて、人類史のはじめからそう決まっているんです。たまたまこの30年ほど日本は有史以来例外的に豊かで安全だったから、「利己的にふるまう人間」の方が「共同体全体の利益を配慮する人間」よりも早く多めの資源配分に与るという「ふつうはありえないこと」が起きた。でも、そんなのは例外的な歴史的状況でした起きないことなんです。そして、その例外的歴史的状況はもう終わったと僕は思います。
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身体という限界をかければ経済活動は必ず縮小する。それは論理的には自明なんです。でも、それを認めることをみんなが怖れている。でも、食べられないほど食物を買ったり、着られないほど服を買ったり、乗らない自動車を買ったり、住まない家を買うような消費行動を基盤にして成立している経済体制というのは、本質的に無理筋だろうと僕は思います。そんなこと長く続くわけがない。
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今は夢物語に聞こえるかも知れませんけど、僕は「交換から贈与へ」という経済活動の大きな流れそのものはもう変わりようがないと思っています。そのうちに、ビジネス実用書のコーナーに「どうすればともだちができるか」「後味のよい贈り物のしかた」というような本が並ぶようになっても、僕は怪しみません。
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