大塚英志 宮台真司 『愚民社会』(太田出版)より引用
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大塚 なぜそこで改憲論ではなくて、護憲論を宮台さんは再構築しないんですか?
宮台 今も申し上げました通り、護憲論では改憲論に太刀打ちできないからです。
大塚 なぜですか?
宮台 いくつか理由がありますが、最大のポイントは九条が現実に果たしてきた機能の歴史的変遷と、そのことについての国民的な理解の歴史的変遷です。ご存知の通りGHQが出してきた憲法草案は、政府や憲法学者まで含めて度肝を抜き、押しつけ云々以前に「近代とはそういうことなのか……」と人々を嘆息させてしまった。押しつけ云々は嘘八百です。
ところが、一九四九年以降ソ連の核実験成功を機にGHQが占領政策を一八〇度転換して再軍備要求をするようになって以降、とりわけ映画『この世の外へ』が描いたように朝鮮戦争で日本がアメリカに都合よく利用される可能性に人々が気づいてからは、護憲は「アメリカの言いなりにならないぞ」という反米ナショナリズムのツールになりました。
吉田茂が「改憲をいう輩はバカだ」と断言していますが、彼は、冷戦体制の深刻化による国際緊張と、アメリカの利害を観察した上で、再軍備要求を拒絶した上で「基地を貸すから本土を守れ」という双務的な条件を結ぼうとしました。アメリカがくれた憲法を逆手にとってアメリカの言うなりにならないようにする戦略ですね。
「護憲=反米ナショナリズム」こそ戦後の本義。「保守本流」といえば吉田茂のグランドデザインを護持することを本義と心得る勢力のこと。この本義が忘却されるのが「非・保守本流」の岸信介による六〇年安保改定です。議会手続きを無視して「アメリカの犬」としての馬脚を露呈した岸のせいで、日米安保は「米帝のケツを舐めて私腹を肥やす日帝支配層」の方便になりました。
その反作用で、「九条を護持しさえすれば日本は平和主義国家」などとほざくバカ左翼が出てきます。それに対抗して「九条を改正して自衛隊を国軍化できさえすれば日本は一人前だ」などというバカ右翼さえ出てきます。それが今日まで続いてきている「目くそ鼻くそ状況」です。
バカ右翼は、三島由紀夫の言説で一発粉砕できる。「自衛隊を外に出しさえすれば一人前って、アメリカのケツ舐めてる間はあり得ねえよ」ってことです。ブッシュ政権は国際社会では既にバカ扱い・禁治産者扱いですが、アメリカは民主党政権誕生でバックラッシュする可能性があるからいいとして、ケツ舐め日本は国際社会で完全にバカ扱いです。
問題はバカ左翼。実は九条の存在ゆえに、集団的自衛権の行使が野放しになっているんです。戦後五〇年以上、戦後憲法の下で僕たちは集団的自衛権を行使し続けています。戦時の横須賀米艦船への燃料と物資の補給です。沖縄返還後は嘉手納基地もそう。兵站提供という戦闘行為そのものです。
「米艦船の出港に際しては戦地に赴くとの報告は受けていない」というのが政府答弁ですが、当たり前です。戦闘行為を事前に報告するわけがない。だったら「集団的自衛権の不行使」という憲法の大義に、いったいどんな意味があるのか。左翼はそれを考えてきたのか。自分たちの命が危機に晒されないなら戦争特需万々歳っていうことなのか。
アフガン攻撃の際の防衛庁長官発言はどうか。トマホークを発射するアメリカの艦船への燃料補給は兵站提供ではないのか。答えていわく「発射段階では、遠隔操縦兵器ゆえに敵地着弾は不確かであり、戦闘行為に入ったとはいえない」と。かくして、堂々と集団的自衛権の行使が行われています。
僕は道義的に許せない。だから「憲法を改正しろ」といってきた。第一に、憲法改正して集団的自衛権を明示的に認め、第二に、国家安保基準法をつくって何が集団的自衛権行使に当たるかをマルチラテラルな枠組みに委ねる。年来の主張です。この主張が珍しいというんで、国会の参考人として僕にお呼びがかかったりする。オーソドクスな主張なのに。
平和憲法の名称は名ばかり。その機能はむしろ思考停止的な対米追従の補完物です。単なるケツ舐め支援装置。これを放置して恥じない思考停止的なバカ左翼はそうにもなりません。バカ左翼が生み出すバックラッシュで、安倍晋三的な対北朝鮮での「バカの一つ覚え」的強硬論が国民世論になってしまう。国防族のベテラン議員でさえ惨状を嘆くわけです。
大塚 それは社民党なり従来の護憲派の問題でしょう。まだおそらく五年くらい時間があると思いますから、社民党的あるいは共産党的な護憲論、要するに従来の「変えなきゃいいだろう」的な護憲論ではなくて、別の形の護憲論を構想できるんじゃないですか? 現状でさまざまなリスクを考えたときに、よりマシな改憲案が出てくるように国民や実際の改憲案づくりにコミットする政治家たちを啓蒙するよりは、現状の憲法をよりマシな選択として維持しようという方向のほうが、可能性があるんじゃないですか。
宮台 分かりますよ。でも僕の現状認識では、「よりマシな改憲」を追求する振る舞いが、「よりマシな護憲」を追求するよりも意味を持つ段階になったと思うんです。むしろ「思考停止的な護憲主義」をいったん解除しないと、バックラッシュで改憲勢力が勢いづくのを止めることができないと思うんです。
大塚 でも護憲勢力なんて、ほとんど消滅しているんじゃないですか。
宮台 その通り(笑)。積年の思考停止から来る自業自得です、現状では、護憲勢力を当てにすることはできない。だったら抽象的な改憲理念と具体的な改憲プランで勝負するしかない。今年の夏ぐらいから具体的に議論がなされていくでしょう。それに備えて有効な議論を準備することが、今必要なことです。
しかし、議論が進むにつれて、憲法が「国民から国家に対する命令」であることをも弁えずに「憲法に国民の義務を書け」などとホザくバカ右翼の前近代主義的改憲論しか生き残れないような状況になったら、「それだったら護憲しかない」という方向に舵を切る可能性を、僕は留保していますよ。大塚さんと僕とでは、事実に対する評価の重みづけが違うんだと思います。朝鮮戦争からベトナム戦争を経て、冷戦体制の終焉をはさんで、一九九七年以降の日米新安保体制に変化していくまでのプロセスに——多くの人はそれが日本の繁栄を支えたものだというのですが——僕は非常にネガティブな感覚を持っているわけです。
それは「世界中から後ろ指をさされようとも、倫理的に忸怩たる思いを抱こうとも、繁栄の継続に役立ちさえすれば、アメリカのケツを舐める」という振る舞いをどう評価するかということです。正確にいえば、そういう振る舞いを「あえて」やる場合と、思考停止的な「習い性」でやる場合と、選択肢がなくて「仕方なく」やる場合では評価が違ってきます。
「仕方なく」やる場合でも、選択肢がなくならないように知恵を使ってきたのに追い込まれてしまった場合と、選択肢を手元に残すことに何の努力も払わなかった場合とでは、評価が違ってきます。要は、アメリカに何らかの要求を突きつけたり、アメリカを操縦したりする必要が出てきたときに備えて、リソースの準備をしてきたかのかどうか、です。
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宮台 だから僕は、いろんな場所で述べてきているように、近い将来の憲法改正がどういう帰趨になるかにさして期待していない。代わりに、この機会にかこつけて、遠い将来の子孫たちに役立つようなコミュニケーションを残しておきたい気持ちが強い。
ならば、「憲法改正によってこそ、事実上の抗米意思を、国民が明確に内外に表明し得るのだ」という憲政の常道を、きちんと示しておきたいんです。それが、日本人的な思考停止の習い性——九条を護持さえすれば日本は平和主義国家だといった馬鹿げた思い込み——を解除するための、唯一の方法だとさえいえるでしょう。
ところが……どうしようかな……この際あえていってしまいましょうか。僕は「憲法ナショナリズム=反米ナショナリズム」の本義に立ち戻れ、と叫び続けています。憲法改正をするなら、この本義にもとらぬようにせねばならない、といい続けています。でも、大塚さんが嫌がるかもしれませんが、僕はこの命題を本気では主張していません。
なぜなら、今日のリソース配置を見る限り、「反米ナショナリズムの本義に立ち返って憲法改正をなす」ことは、象徴天皇制問題があるがゆえに、構造的にまったく不可能だからです。ピンとこない若い人たちのために、あえて短絡していうと、反米ないし抗米が、めぐりめぐって「アンチ天皇制」を含意してしまう蓋然性が高いからです。
読者の皆さんは、えっと思うでしょう。説明します。皆さんはイラクの新憲法問題をご存じでしょう。新憲法草案第四条問題、すなわちイスラム教を国教とするかどうかで揉めに揉めているわけです。これは日本の敗戦後にGHQが直面した問題とよく似ています。象徴天皇制を残した上で、それを民主制と両立させ得るかという問題です。
確かに、理論的には、民主制の対立項は独裁制です。民主制は君主制と両立するはずです。実際に両立させてきた立憲君主制国家もあります。現にイギリスがそうです。ただしこれは、国王をギロチンにかけたり、国民が国王を無理矢理従わせたりする歴史なくしては、現実化できません。
日本はどうか、無理です。GHQが憲法草案を内示したとき、東大法学部に憲法草案を模索する研究会があったのですが、そこにさえ統治される者が自ら統治するという「主権在民」や「民主」の概念を理解できる学者が一人もいなかったというエピソードがあるくらい(笑)。君主制と民主制を両立させる民度はありません。
ところが実際に何が起こったか。約七年の占領統治期間を通じてアメリカが重石になったせいで、戦前からの国体継続(象徴天皇制)と民主制とが両立するかのような自明性がつくりあげられ、それが戦後民主主義の出発点になりました。アメリカという重石は、反米愛国が本義か否かとは関係なく、事実問題としてものすごく大きなことでした。
つまり、君主制と民主制が日本で両立するかどうか怪しいのに、怪しさを対米従属が隠蔽した。天皇制を残すことは日本の民主化を望む世界最先端の民主国家アメリカの意向だ、という具合にアメリカが重石になった。重石を外せば怪しさが端的に顕在化します。アメリカという重石を外した状態で、君主制と民主制を両立させ得る民度が、果たしてあるか。
すなわち、対米自立という選択肢を選ぶことにした途端、「象徴天皇制と民主制って両立するのかよ』という議論が、シビアでクリティカルな問題となって出てくる。これは下手をすると、天皇制の存廃をめぐる血みどろの争いになる可能性もある。それだったら、対米追従でケツ舐めておいたほうがいいよ、という判断もあり得ます。
天皇制問題については、僕はまだ今いったような政治的なクリティカルな問題としては語っていません。その前提に当たるような基礎知識を話しているだけです。しかし対米自立問題が本当に選択可能な選択肢として人の頭にリアルに上るようになった暁には、天皇制に関する議論が、僕がここでやっているような追求じゃ済まない大問題になるでしょう。
簡単にいうと、僕は「対米自立」という選択肢が愛国の本義に適うみたいな言い方をしてるけど、本気で思っているわけじゃないということです。それを本気でいう覚悟があるなら大したものです。象徴天皇制問題について、アメリカという重石なしに国民の合意を取りつけられるという自信を持つことは難しいと思います。
まあ、いい。大塚さんがおっしゃっているように僕の予想は間違いがつきもの(笑)。どうなるか分かりません。しかし、いずれは「本気でいっていない」といわなきゃいけない状況も到来し得る。すなわち「ケツ舐め外交以外の選択肢は天皇制問題を抱える日本には存在しない」と。でもそれをいってしまっては身も蓋もない。その辺は難しい問題です。
大塚 ずいぶん悲観論ですよね。
宮台 はい。少なくとも短期的には。
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