2012年07月22日

穂村弘「八〇年代最大の衝撃」より引用 (小学館文庫『もうおうちへかえりましょう』所収)


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 逆に云うと、その頃の私はそれほど何もかもがわからなくなっていたのである。何故そんなことになったのか。八〇年代とはイメージと自意識の時代であり、私はそのふたつによって楽しく完璧に殺されていたのだ。
 当時のバブル的な追い風のなかで、電通が、セゾングループが、マガジンハウスが、我々の周りを無数のイメージで取り囲み、それらを急速に洗練させていった。実体と縁を切ってしまったイメージの加速は凄まじく、その洗練には終わりがないかのようだった。キャッチコピーを例にとると、片岡義男によればコカコーラが初めて日本に輸入されたときの宣伝文句は「飲みましょう」だったという。それが「すかっとさわやかコカコーラ」を経て「アイ・フィール・コーク」へと進化(?)していったわけだ。「飲みましょう」の意味はわかる。ここでは言葉はその意味に対して等身大である。「すかっとさわやかコカコーラ」の意味もまあわかる。だが、ここにはコカコーラが口の中だけではなく生活全体をさわやかにするような奇妙な増幅感が生まれている。言葉は等身大の意味を離れてイメージ化しかかっている。そして「アイ・フィール・コーク」になるともはや殆ど意味不明である。そして意味の明瞭さとは無関係に支配力を持つところがイメージの怖さなのだ。考えずに感じてみようという誘いの背後にはイメージによる判断停止の意図が感じられる。最近年の「No reason」というコピーはその極まったかたちだろう。一方、「飲みましょう」の意味は明瞭だが、現実にはそのコピーはとっくに支配力を失っている。「飲みましょう」と云われて「はい、飲みます」と頷く日本人はもはやどこにもいないのだった。
 八〇年代の私たちは高度に洗練された無数のイメージに支配されて、楽しく苦しく踊らされていた。イメージ社会のピークを感じた瞬間のことを憶えている。有楽町の西武デパートの別館に、どろどろに溶けた硝子のミッキ−マウスが幾つも並んでいたのだ。ひとつひとつ溶け方や焦げ方が違う。それはまるでミッキーマウス工場の焼け跡から掘り出されたもののようにみえた。思わずひとつを手にとってひっくり返すとそこに値札がついている。実際に火事場から掘り出してきたのか、それども意図的に溶かされた作品なのかはわからない。確かなことは「誰か」がこれに値札をつけてここに置いたということだ。「誰か」はこれを欲しがる者の存在を予測していたのだ。心の深い部分にある欲望を「誰か」の手で操作されているような不気味さを覚えながら、私は最も「溶け具合の良い」一匹をレジに持っていった。
 全てがイメージ化した世界のなかでは、〈私〉はその全体性を失い、ほぼ自意識と同義になる。自意識が世界の全てになってしまうのだ。そこまで肥大した自意識を傷つけられることには大変な痛みを伴う。自意識を傷つけない表現のうち、代表的なものが村上春樹の作品だった。彼はその小説のなかで、嘘をつかず、自意識を完璧に守りながら、しかも「素敵」であることができた。その「素敵」さの説得力に私たちは抗うことができなかった。大学のカフェテラスで『カンガルー日和』や『1973年のピンボール』や『回転木馬のデッドヒート』を嘗めるように読みながら、私は「素敵」でなくなることを怖れ、どこまでも臆病になっていった。
 村上春樹、(略)などの世代には、おかしな云い方だが「実体験」があった。彼等は現実のなかで深く傷ついた経験や何かを失った経験を持っていた。だからこそ、その裏返しとしての「素敵」さを示すことができたのだ。だが、「実体験」のない私たちの世代は、それらを初めから無傷の「素敵」さと錯覚して受け取ってしまったのである。結果的にその「素敵」さは私たちから勇気を奪った。
 私たちを取り囲んだイメージ社会は、また極めて柔軟な強度をもっていた。本来、反イメージ的であるはずのもの、例えばビートたけしの言動なども、イメージ的に「曲解」してその増殖のために利用してしまうことができた。忌野清志郎のような存在さえ、「孤高の天才」という例外化によって、一種の隔離がなされていたように思う。
 イメージの乱反射、自意識の肥大、「素敵」さの呪縛から、私たちを目覚めさせる契機は皆無だった。私たちは心や感動などというものを信じることができなくなっていた。ひとつにはそれらを口にする者たちは、イメージの側に立つ者よりも、遥かに無能で醜かったということも大きかった。彼等の云う心や感動の嘘臭さや曖昧さに比べて、イメージや自意識やセンスはきらきらと確かなものとして目の前にあった。心や感動を口にする者たちよりも、どろどろに溶けたミッキーマウスを私に買わせた「誰か」の方が、たとえ悪であってもずっといい、と思っていたわけだ。今もその判断は間違いではなかったと思う。ともあれ、八〇年代後半の私たちは、きらきらした世界のなかで全く身動きができなくなっていた、どろどろのミッキーマウスとは私自身であった。


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(初出『別冊宝島681 音楽誌が書かないJポップ批評20』2002.8)


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投稿者 vacant : 2012年07月22日 14:11
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