『別役実の演劇教室 舞台を遊ぶ』 別役実(白水社)(2002/12/30発行) より引用
ある都心で生まれ育った女子中学生が、九州の田舎に引越し、そこでカルチャー・ショックを受けた、という話がある。彼女が都心に住む友人に送った手紙によると、「こちらの子は、よく田んぼのかたわらにぼんやり立っていて、近よって『どうしたの』と聞いても、『どうもしない』と言うばかりだし、まわりの人たちも、なんとも思ってないみたい」というのである。
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言われてみると、わざわざこのように聞かれるまでもなく、この「情報化社会」においてわれわれは、四六時中「あなたは、誰ですか」「今、何をしようとしているのですか」と暗に問われているのであり、これまた暗に、その問いに答えるべく身構えつつあるように思われる。そしてこの「問い」と「答え」の呼応関係からはずれると、もしくははずれていると感じとりはじめると、たちまち不安を覚える。葬儀の場で、ひとりだけ喪服にはあるまじきものを着ている時の不安、と考えればわかりやすい。
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ささいなことだと考えるわけにはいかない。私はこの「あなたは、誰ですか」「今、何をしようとしているのですか」という問いに対して、答えるべく強制されつつある状態を、一種の「情報汚染」と考えているのだが、一旦このことを意識しはじめると、容易にこれから抜け出すことは出来ない。
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古典落語の中にいくつか、江戸時代の「人だかり」について、面白おかしく描写したシーンがある。堀部安兵衛の仇討ちを語る『高田馬場』にもそれがあるのだが、ともかく当時、物見高い人々がそのあたりをうろついていたから、何かあると「ワッ」と、黒山の「人だかり」が出来るのである。
当然、遅れて駆けつけてきた人には、人垣にさえぎられて何があったのかわからないから、「中はなんだ」と前の人に聞いてみる。「どうも、犬がお産をしたらしい」と一人が答えると、別な一人が、「そうじゃない」と言う。「巾着切りがつかまったんだ」。しかし、別なところでは、別の話になっている。「どうやら、乞食の婆さんの行き倒れらしい」
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この体感した何ものかを、なんと説明していいものか、よくわからない。ただ、茶の間に座って、テレビ・レポーターの言葉と、テレビ・カメラの映し出す映像を通じては、得られないものであることは明らかであり、情報における何ものかであることは、否定出来ないであろう。
「もしかしたら」という前提で、私はこう考えてみる。たとえば、お茶の間でテレビを通じて得られるものは、情報の「表層」であり、「人だかり」の中で五感を通じて得られたものは、情報の「実質」である。つまり、江戸時代に「人だかり」を作った人々は、情報の「表層」は得られなかったから、それが間違っている場合も少なくなかったが、その「実質」は得られたから、体験感は感じとることができたのである。一方、今日の我々は、情報の「表層」は得られるから、それが間違っていることはほぼないが、その「実質」は得られないから、「体験感」というものが感じとれないのである。
これが「情報化社会」におけるひとつの問題であることは、誰にも否定出来ないであろう。このことは、我々の日常生活においても、「時間がたつのが早い」という言い方で、指摘されつつある。つまり、あらゆる事象が情報として伝えられ、それに体験感が伴わないから、すべてがするすると表層を流れ去っていくように感じとられてしまうのであり、従ってあっという間に、時間だけが過ぎ去っていくように思われるのである。
ここで、情報伝達手段としての「演劇」が見直されはじめたということが、よく理解出来るに違いない。「演劇」の情報伝達手段は、江戸時代の「人だかり」における情報伝達手段と、よく似ているからである。
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