18日目。
発見された島。
黒い海原が揺れるたび、泡のような波頭が浮かぶ。
水平線の果ては、白い煙に霞んでいる。
目を細めると、黒い突起状の影が。
あれは、島か。
・・・・
というのは発見する側の視点。
生きているなかで
発見される側を経験することは、
あまりない。
だれもいない
浜辺の粗い砂に仰向けになり、
いつものように
空が動くそのディテールに目を凝らしていると、
突然、
傍らに、人が立っている。
ほぼ裸の、
手入れもしていない私の身体に比べ、
一分の隙もない
制服に身を固めた人影に
島と私は発見された。
長尺-2
曲名: 富原ナークニー~はんた原
収録: 美ら弾き 沖縄島唄6 登川誠仁
尺数: 4:11
1998年5月。
日付はとっくにかわっていたが空気は蒸していた。
愛すべき巨漢のマスターが
私と同僚Nのために何杯目かのグラスを運んできてくれた。
もともと今夜泊まる場所なんて無い。
この店で夜を明かすか、
だめなら別の店に移ってもいい。
去年きたときは近くの墓場で寝たのだ。
墓のかたちが本土と違うので、朝まで気づかなかったけれど。
ビニール張りのソファーは、
芋虫のような鮮やかな緑色だった。
いやそれとも、淫靡な赤い色だったか。
『なんた浜』の店内のステージでは、
酔払ったオヤジ客が唄いはじめていた。
ここでは夜が更けるほど、老人たちが店に繰り出してくる。
こっちもひどく酔払っているから気にもならない。
「うるま」を貰いに席を立つと、
カウンターの隅に、さっきまでステージにいたオヤジが座っている。
見れば華奢なじいさんだったが、いかにも頑固そうな顔だ。
にこにこしたマスターがとりもつうちに
いつのまにかそのじいさんと会話になっていた。
訛りが、きつい。
言語の違いで会話が噛み合わないうちに、
いつのまにかお説教になり、
しかもまったく誤解されていた。
「民謡やりたくて、軽はずみに仕事辞めて家飛び出してきたのか。
これだから最近の若い者は・・・」
なんて言ってるようだ。
そして
「どうせ行くあては無いんだろう。困ったら私を訪ねて来なさい。」
と、名刺を差し出してきた。
スツールにちょこんと腰をかけ、
「バイオレット」をくゆらせながら、真っ直ぐこっちを見ている。
名刺に並んだ四つの漢字を見て、
「あ、この人。」と思った。
明くる日、
私と同僚Nは、
マスターに紹介してもらった楽器店で三線を手に入れた。
『ちんだみ工芸』の主人はわれわれを見るやとニヤリとして
「きのうの夜、あの店にいただろう。あの人の演奏を見ただろう。」
食堂で
手に取った地元誌の表紙には、
シャッポをかぶったあの小さなじいさんが
三線を抱えてニッコリ笑っていた。
・・・
2005年4月。
世田谷パブリックホール。
大観衆のなかの一人として、
偉大な小さなじいさん
誠小(せいぐぁー)に、久しぶりに、会った。
弁天橋を渡りながら、
近づいてくる向こう側の景色のなかに
二見館がすっかり無くなっていることに気が付いて
軽く動揺した。
この島ですら、
こんなふうに変わっていってしまうのか。
思春期のころから、
なにかというと
この島に向かってこの橋を渡っていた。
夏にさえ来なくなってしまった今でも、
かならず年にいちど
体が求めるように
この島を訪れる。
去年も、今年も、五月らしくない
五月の空の下だった。
同じように群青の波を見た。
同じ道を戻る。
辺津宮の前で
ふと魔が差したように
これまで一度も足を踏み入れたことのない
生活道路へと道をそれた。
この島で久しぶりの冒険だ。
曲がりくねった狭い路地。狭い玄関。
できるだけ迷いたくて、息が急いた。
『ここは地獄の一丁目。』
玄関のゼラニウムの鉢を足で倒した女の子がそう言っていた。
昔読んだ小説のなかで。
長尺-1
曲名: Like Someone in Love
収録: ERIC DOLPHY AT THE FIVE SPOT VOL.2
録音日: 1961/07/21
一月か二月、真冬の函館本線。
鈍行列車の厚いガラスの外には、雪原。
ただ、雪の平原だけが続いている。
冷たい白に包まれた景色の上にさらに白が降り重なっていく。
いちいち軋んだ音を立てていた古びた列車が
今は音も無くその世界のなかを走っている。
既に余市は出発して、まだ倶知安には着いていない。
次の駅の名前は知らない。
耳のなかではフルートが鳴っていた。
氷の上を凍えながら舞い跳ぶようなその演奏を聴くと
いまでもその無音の雪景色を思い出す。
そのときも
何かを思い出しながらこの曲を聴いたのだろう。
でも、いまではもう
それが何だったのかは思い出せない。
やがて列車の椅子暖房のような
マル・ウォルドロンのピアノパートが始まった。
陽が傾いてきたので起き上がると、
少し夕方の風が吹きはじめていた。
一時間くらいは寝たらしい。
与儀公園の石垣の上は、
僕の身体の跡だけがまだ昼の熱気を保っていた。
粗めの砂利で造られた感触を指で確認する。
汗の跡なのかじっとりと黒ずんでいる。
頬を撫でると手のひらから砂が払い落ちた。
空気がうっすらと紫色を帯びてきた
と思っていたら、
公園の蚊が次々とやってくるようになった。
向かいの神原小学校にはもう誰もいないようだ。
ひめゆり通りを急ぐ自動車の音が
やけに騒々しい。
べとついたシャツに風を入れ、
ぎくしゃくした身体で
また歩きはじめることにする。
夕闇と排気ガスに追い立てられるように
あても無くガードレールの内側を往く。
開南のバス停では、
坂道に沿って人間が坂のように並んでいる。
みんな自分の生活のことで頭が一杯で、
僕のことには誰も気付かなかった。
市場の裏では、吠え立てる犬。
青いプラスチックのゴミ箱。
見上げれば、アーケード入口の錆びた赤い文字と、暗い天井。
洞窟のような商店街を抜けると、
空は蒼く夜だった。
街の光のにじみ具合が
なんだかいつもと違う気がして
ふらふらとA&Wに入っていった。
冷房と蛍光灯に眼の奥できーんと音が鳴った。
店員の黄色い声が遠くから聞こえてくる。
席に座ると
窓の外には夜の街が流れている。
店内のやけに黄色い光との対比が、
なにかの映画を思い出させた。
そしてルートビアを一口飲んで
思い出した。
この店は、何年も前に瓦礫にされて
今はもう無かったはずだということを。
江戸川沿いのサイクリングロードは土手の上を走っているため、
河川敷を箱庭のように見下ろす格好になる。
それに比べ、
荒川のサイクリングロードは
土手の下、河川敷を水平線の高さで走っている。
草野球、草サッカー、
いくつもの試合が次から次へと目の前を通り過ぎていく。
中盤で競り勝ったボールを受取りシュートするがゴールを外した選手。
リトルリーグの少年を本気で叱っている監督。
試合を応援するようでもあり、手持ちぶさたのようでもあり、
何かを待ちながら、草むらにしゃがんで選手を眺めている女たち。
彼らが当事者だとすれば、
通り過ぎるだけの自転車は、傍観者になる。
走っても走っても、
また草野球のチームが現われる。
大都会に住む無数の人たちが、
日曜日を求めて河川敷にやってくる。
それはとても幸せな景色。
小江戸と呼ばれる蔵の町まで走り、
空が黄色くなる頃、また河川敷を戻ってきた。
すべてのグラウンドは
もう試合を終えていて、
ひとりで球を蹴りつづける痩せた青年の影と、
草むらでトランプをつづける四人の男女と、
ユニフォームを脱ぐ男たちを眺めながら
相変わらず手持ちぶさたな女たちが残されていた。
むらむらとして寝付けないので
起き上がって散歩に出掛けることにした。
兜町の証券取引所を出ると、
闇夜を行き交う自動車が
雨上がりでもないのに濡れた路面を滑るように
しゃあしゃあと音を響かせている。
鎧橋を渡りながら外堀の運河に目を落とすと
真っ黒な水面がてらてらと光っていた。
すぐ角を左へ曲がり、
どこかで見た景色だと思っていたら、
大阪の中之島から肥後橋を渡り右へ折れた土佐堀沿いにそっくりである。
前を行く縮れ毛の女性の後姿が、大阪の叔母に見える。
いやにせかせかと歩いているのに、不思議とぐんぐん距離が縮まっていく。
気になってよく見ると、肥えた下肢は小走りにこちらに向かって進んでいた。
気が動転して、明治座に向かう予定が、いつのまにか
どこを歩いているのか判らなくなってしまった。
夜の雲が、闇空の遥か高いところに、
山の稜線を造りだしている。
いつのまにか道は途切れ、そのまま夜の公園へと誘われた。
じめじめした外灯の明かりの下、影の薄い人々が、
三々五々に大声で噂話をしている。しかしいくら意識しても何を喋っているのかは
判らなかった。
突然、眼前に
保健センターの影法師が巨人のような姿を現し、そして消えていった。
左右には、吸い込まれそうな暗い長屋通りがいくつも現われ、
軒先では青白い光がばちばちと音をたてて燃焼している。
やがて道が行き止まりになると、右に、「身延別院」と書かれた寺が建っていた。
眼の前の公園を眺めてぼんやり立ちすくんでいると、
大きな声のようなものが聞こえて、辺りが薄暮か早朝かのように、急激に白っぽくなった。
通りの遥か遠くから、腹巻をした老人が、眼を細めてしきりにこちらを見ている。
私は歯が震えて、足早に来た道へと戻ると、また直ぐに辺りは澱んだ闇夜へと戻った。
息が上がって、後ろを振り向くと、公園のいちばん奥の腰掛けで
真っ白な顔をした二人の人間が交尾をするように抱き合っていた。
・・・
あくる日、知り合いにその話をすると、
その公園は十思公園といって、
江戸時代の牢屋敷跡なのだと教えられた。
右上のカレンダーが今日を指している。
右上のカレンダーを見ながら、
世界中の人が今日のブログを書いている。
夜の青梅街道沿いを小雨に降られてとぼとぼ歩いている人がいる。
テレビ局のスタジオで刺すような照明を浴びている人がいる。
ひとけのまったくない中込の町でお客を待ってる蕎麦屋の主人がいる。
日本の端っこの町で古びたホテルに荷をおろしたばかりの人がいる。
川沿いに建ち並ぶ公団住宅の14階で家に辿り着いた人がいる。
川沿いに建ち並ぶマンションの点々と青白い光を運転席から眺める人がいる。
眩しくて少し寂しげな店で恋人と酒を飲んでいる人がいる。
大騒ぎしている人がいる。
蛍光灯に照らされて自社のカタログと業界紙を机に並べて仕事をしている人がいる。
水田にほどちかい土手沿いの家の前で縄とびをする子どもたちがいる。
猫とテレビを見ている人がいる。
誰かのことをすごく考えている人がいる。
飯坂の温泉街のボウリング場で今日の仕事を終えてロッカー室を出た人がいる。
しかし、
だれも読まない文章を書いているというのは
不思議な感じだ。
だれでも見ることができるのに
だれにも発見されていない存在。
なんだか、
自分が小さな南の島にいて、
果てしない大海に囲まれていることを意識しながら、
「いま俺がここにいることはだれも知らないんだよなあ」
なんて思っているときの気分に近い。
ぞくぞくして、とても気持ちいい。