一
七日目の朝は、
未明に目を覚ました。
あした一日で距離をかせぎたいから
始発のバスで発ちたい。
前の晩に宿賃を支払うと、
主人は、三時五十九分にバスが来ると云った。
どろどろの闇のなかで荷造りをし、
外へ出ると、
もう、物が見えはじめていた。
薄明の澄んだ空気。
でも潮風がここまで流れてくるのか
肌がもうべたべたする。
光が足りない写真のように
粒子は粗く、淡くぼやけて見える。
黄色い土埃の道路に青みのかかった空気。
山の樹々の輪郭がようやく認識できる。
夏の朝なのに、うすら寒かった。
遠くの浪音と
早朝の山鳥の囀り声、
それ以外は何も動いていない。
こんな時間、こんな場所に
バスが現われるわけがない。
そう確信したくなる時間がいつまでも続いた。
奥まで錆びきった停留所の柱が
曇り空の下、風に揺らされている。
やはり来ない。
腕時計の時間が十分進んだ頃、
来るはずのないバスがカーブの先に
突如姿を現した。
どきりとするほどに静寂を破って。
私を轢き殺しに来るのではないかしら。
どんどん大きくなるバスの姿に、
夜明け前の濁った空気のなかで、
何か不思議な縁を感じた。
芭蕉が凡兆を思い切って抜擢した理由は、当時芭蕉が模索しつつあった新風「かるみ」の実践に、凡兆の句風が大きな示唆を与えてくれたからでもあったろう。凡兆の代表作とされる、
禅 寺 の 松 の 落 ち 葉 や 神 無 月 (「猿蓑」)
な が ~ と 川 一 筋 や 雪 の 原 (同)
といった、一見対象をそのまま切りとったような句法に芭蕉は注目したのである。
それは広くみれば、当時の京俳壇における「景気」(景色、状景)の句流行を見据えたものでもあったろう。
(中略)
あるとき、凡兆が「雪つむ上の夜の雨」と句案して、上五字に何と置こうか迷っていた。いろいろ考えあぐねた末、芭蕉が「下京や」と置けばすばらしい句になると提案したところ、凡兆は一瞬「あ」と答えただけで、なお承服できない様子であった。そのとき芭蕉はさらに、もしこの「下京や」以上に勝れた五文字があるようならば、「我二度(ふたたび)俳諧いふべからず」とまで言って、激しく凡兆に迫ったという。
おそらく凡兆としては、春間近な雪深いところの景色などを趣向しようとしていたのであろうが、芭蕉は庶民の生活の匂いのする「下京」の街(京都の下町)のもつ暖かさが余情としてにじみ出てくるような世界を案じたのである。対象の構図を鮮やかに切り取ってしまう凡兆の巧みさを理解しつつも、芭蕉はそうした「景」の中の「情」の大切さを示そうとしたのであろう。
(中略)
凡兆の俳風は、(中略) 客観的で印象鮮明な叙景句に秀でているとされ、また、
灰 捨 て て 白 梅 う む る 垣 ね か な (「猿蓑」)
の句のように、そこに一種微妙な日常感覚の表出がみられ、俳諧表現の庶民性を新しいかたちで発揮していると評されている。それは「景気」の句が流行した元禄期の風潮によく叶ってもいた。ただ、凡兆の句における「景」の具象的鮮明さは、実景のごとく見えて、実景にしては整いすぎているのである。そこに凡兆の絶妙な構成意識の働きを見届けなければならない。
限られた字数で無限の詩的時空間を構築しなければならない短詩型の表現では、対象からある一つのイメージをつかみとってくるだけではどうにもならない。イメージとイメージを組み合わせるなど、そこに知的操作が加えられる必要がある。それが十七字の文芸にとっては表現の本質なのである。そして、凡兆の句には、そうした微妙な構成意識――凡兆独特の趣向の働きが、目に見えないほどの自然なかたちで備わっているのである。
百 舌 鳥 な く や 入 日 さ し 込 む 女 松 原 (「猿蓑」)
肌 さ む し 竹 切 る 山 の う す 紅 葉 (同)
(中略)
あるとき、『猿蓑』編集作業にとりくんでいた去来と凡兆の許に、芭蕉から、
病 雁 の 夜 寒 に 落 ち て 旅 寝 哉 芭蕉
あ ま の や は 小 海 老 に ま じ る い と ど 哉 同
の二句が送られてきて、このうち一句を入集させるとすればどちらかよいと思うかと尋ねられたのであった。「病雁」の句は、夜寒の空を渡る雁の列から一羽の雁だけが急に舞い落ちたのを見て、これに病に臥したまま旅寝をしている自らの心情のわびしさを重ねて詠んだものであり、いわば「景」と「情」が一つになった心境象徴の句になっている。これに対して「小海老」の句は、湖畔の漁師の家の土間か庭先に敷いた筵などの上にとってきたたくさんの小海老が干してあるが、ふと見るとその中にいとど(えびこおろぎ)が一匹まじっていたという嘱目の光景であるとみてよかろう。
さて、この両句の選択について、凡兆は、「病雁」の句も確かにすばらしいが、「小海老」の句の方は「句のかけり(ひらめき・働き)、事あたらしさ(題材の新しさ)」の点でこれ以上ない秀逸な句であるとしたのに対し、去来は、「小海老」の句の題材の珍しさよりも「病雁」の句の「格高く、趣かすか」な点を強く支持して、互いに激しい論戦をたたかわせたのであった。
『猿蓑』当時の芭蕉が求めた俳風には、「病雁」的な主観性の強い詠みぶりと「小海老」的な客観的形象性を重視したものとの両面があったようであり、その意味で二句の優劣はにわかには決着をつけ難い。
(中略)
ただ言えることは、『猿蓑』時代の凡兆が、「小海老」の句のような「景」の句を支持し、題材や着想の新しさ、それに感覚的なひらめきをとくに重視していたということである。
(堀切実『芭蕉の門人』岩波新書 より)
・・・
文中、凡兆の作風を形容した言葉に
共感を覚える。
「対象をそのまま切りとったような」
「「景」の具象的鮮明さ」
「対象の構図を鮮やかに切り取ってしまう巧みさ」
「絶妙な構成意識の働き」
「客観的で印象鮮明な叙景句」
そして、
「客観的形象性」
私が美しいと感じることに近いからだと思う。
芭蕉との「下京や」の論争、および
去来との「病雁/小海老」の論争では、
争点はどちらも、
「景」のなかに「情」が込められていたほうが美しいのか
ということであった。
芭蕉、去来は「情」を取り、
凡兆は、「情」のない「景」を取った。
いまの私だったら、
凡兆に賛同する。
それは、
「情」はいらない等という思想的な問題ではなく、
何を美しいと感じるかという生理の問題だ。
好きこのんで「情」を排したいと思うわけではない。
矯正しようにも治らない体癖のようなものなのかもしれない。
註釈は、夏の月を涼を添えるのに格好の景物と見て、眼前たることを疑っていないが、この句の狙はそうではないのではないか。夏の月を挨拶の趣向につかえば今宵の座には特別の興が見える、と凡兆は言いたいのかもしれぬ。句は、市中「は」と初五を分説して押出しているから、「物のにほひ」のしない何処かから何者かが「市中」に入りこんでいることを要件としているらしく、そのために夏の月がいっそう印象的に仰ぎ見られる、という仕立だろう。それは作者が洛外から京のまちに戻ってきたとか、家から市中へ出ていったとか、あるいはまた、家の中にいて身のまわりに市中の気配を感じとったとかでもよいが(凡兆の家は当時上京の南外れ小川通椹木町上ルあたりに在ったようだ)、個人的感想はむしろ挨拶にならぬ。発句としてふさわしくあるまい。とするとこれは、陋屋へ迎えて申訳ないという謝辞ではないか。そう読むと納得がゆく、幻住庵からわざわざ甚暑のまちへ下りて来た芭蕉の風狂を、凡兆はねぎらっているのだろう。同時に句は心の月の涼に寄せて、山居の人の清々しさを仰ぎ讃える躰の精神的表現ともなっているようだ(凡兆自身の志もそこに覗く)。涼を眼前にのみ求めると、こういう句はどこがよいのかわからなくなる。
(『連句入門 ―蕉風俳諧の構造―』より)
もう十年程前になるが、
「深読み名人」安東次男先生のこの本で
連句というものを知った。
連句。
それは、筋金入りの季節マニア((c)SDP )たちがつくる、
言葉の連想スライドショー。
メンバー間だけに通じる符牒(サイン)の応酬。
ルールの制約をむしろ楽しみ、
きょうのこの日この場所で行なわれる
この試合一回きりの
「イメージ」の華麗なるパス回し。
市 中 は 物 の に ほ い や 夏 の 月 凡兆
凡兆のこの発句の裏側には、
きょうの集いに対しての
おもてなし・感謝・発奮、などの感興が萌え出ているという。
( 芭蕉さま わざわざ街まで おいでやす m(__)m )
安東次男先生に言わせれば、
それこそが連句を読むときの醍醐味であり、
翻って、連句をつくる際には心掛けなければならない
必修事項なのであろう。
しかしながら、
凡兆のこの発句は
そんな連句の醍醐味を拒みたくなるほど
単体であまりにも魅惑的だ。
五感で見る絵のように。
市 中 は 物 の に ほ い や 夏 の 月 凡兆
この12種類の文字を、この順番で並べるだけで
凡兆が画いたイメージが、
寸分違わず今ここに立ち現われる。
だれにでも、どこででもできる、簡単な作業。
玉手箱のように、持ち運んで、好きな場所で開けば雲立ち昇る。
ことほどさように、言葉というものは。
「高いとこの眺めは、アアッ(と咳をして)また格段でごわすな」
片手に洋傘、片手に扇子と日本手拭を持っている。頭が奇麗に禿げていて、カンカン帽子を冠っているのが、まるで栓をはめたように見える。――そんな老人が朗らかにそう云い捨てたまま峻の脇を歩いて行った。云っておいてこっちを振り向くでもなく、眼はやはり遠い眺望へ向けたままで、さもやれやれと云った風に石垣のはなのベンチへ腰をかけた。――
町を外れてまだ二里程の間は平坦な緑。I湾の濃い藍がそれの彼方に拡っている。裾のぼやけた、そして全体もあまりかっきりしない入道雲が水平線の上に静かに蟠っている。――
「ああ、そうですなあ」少し間誤つきながらそう答えた時の自分の声の後味がまだ喉や耳のあたりに残っているような気がされて、その時の自分と今の自分とが変にそぐわなかった。なんの拘りもしらないようなその老人に対する好意が頬に刻まれたまま、峻はまた先程の静かな展望のなかへ吸い込まれて行った。――風がすこし吹いて、午後であった。
(『城のある町にて』より)
直島で(1)
直島のことは、なにから書き始めたらいいのかわからない。
とにかく、静かな興奮に取り憑かれた。
こんな場所、日本中どこにもない、と思った。
書き始めは、抽象的なことからにしてみよう。
私は毎日、一日中、
眼を開けているあいだはつねにものを見ている。
でもそのとき、
脳の「見る機能」がすべて「眼の前のもの」を見ることに集中しているかというと、
どうもそうじゃない。
普段、私の脳の「見る機能」が
眼の前のものを見ることに割いている労力は、
割合にして7割くらいかもしれない。
残りの3割で、
私は、何か想像のなかの、意識のなかの像に、眼をやっている。
トイレでしゃがみながら
目の前の白い壁にずっと眼を向けているけども、
白い壁のことはほとんど見ていない。
例えば、だれかのしゃべる声が聞こえると、
その人の姿や顔が浮かんだりする。
プラットホームに電車が滑り込んで来るのを見ながら、
同時に、街並と浜辺と誰かの顔とがオーバーラップしたような映像を見ていたりする。
いや、もっと不可解な、模様や色のようなものが浮かんでいる。
眠りのつきはじめに、
ああ眠りに入るなあと自覚しながら
映像が浮かんでくることがあるが、
そんな、脈略無い映像が、昼でも頭の数パーセントを占めていたりする。
今も、こうやって文字を書きながら文字を見ている。
文字の意味を把握する程度には「見て」いるが、
それ以上の力を「見る」ことに注いではいない。
(むしろ言葉からつぎつぎに映像を連想しそれを見ている。)
要は、眼の前のものは、適度にしか「見て」いないのだ。
その比率が、9割1割だったり、7割3割だったり、
古いオーディオアンプの目盛と針のように、
つねに揺れつづけている。
・・・
眼の前にしているものを、見ていないこと。
そのことを、
ジェームス・タレルの作品をきっかけに実感した。
作品の狙いとは
別の方を向いているかもしれないが、
これは、不思議な副作用だった。
一
国電大久保駅から営団百人町駅の乗換えなら地下道を使えばいいじゃないか。そう同僚に薦められた数日前のことが思い出されて改札の手前で立ち止まった。来た途をうろうろと引き返しひとしきり辺りを探すのだがそれらしい入口は見当たらない。改札を抜ける客もまばらになった頃、半袖の駅員に地下道は何処かと訊ねると何故だかいそいそと揉み手に上目遣いではいこちらでと案内をしてくれた。
肌着の透けた縦縞の白いワイシャツの背中についていくと、階段を昇ってプラットホームをずいずいと歩いていく。新宿寄りのいちばん端まで辿り着くと緊急時なんとかと文字が書かれた山吹色の厚手のビニールの覆いを剥ぎ取ってこちらですと手で示すと確かにそこは長い下りスロープの入口になっていた。
暗いだれもいない通路をひたひたと歩いていく。蛍光灯の光が弱いくせにその配置間隔が開き過ぎているから暗くて仕方が無い。暫らく行くと先程の駅員が入口に覆いを被せる音が響き辺りは一層暗くなった。
長い直線が続いた先は、甚だ中途半端に折れ曲がっており、そして行止りには観音開きの重そうな扉が現われた。表面には映画館の入口扉のような艶めかしい光沢と張りがあった。
一息に扉を開けると、途端に喧騒が立食パーティー会場のようにうわんうわんと辺りに木霊した。沢山の人々が右へ左へ盛んに往来している。どうやら長い地下道の中ほどに出てきたらしい。
どちらが百人町の駅なのかがはっきりとしないが恐らくと見当をつけて人々の流れに加わった。
デリー大学で物理学と工学の博士号を取得したラジニ教授の研究室は、
下京区夕顔町の一角にある。
町屋造りの外観とは裏腹に、
引き戸を開けると内は梨子地のステンレスの壁に囲まれ、
所々碧色がかった硝子板で仕切られている。
奥の広い部屋の中心に背の高い円筒形をしたプールが聳え立っている。
高さは3メートル強はあるだろう。
外壁はコンクリート製で刑務所の高い塀を彷彿とさせる。
プールというより水槽とも言える。
高い筒の内側からは天に向かって光が放射され、
その分、影になった外壁は黒く見える。
脇に階段状の昇降台がついており、
昇って上から水槽の内を見下ろすと
真っ黒な水を湛えた水面は幽かに波打っていた。
これがラジニ教授の発明による「水槽式ブラウザ」だ。
World Wide Webの世界に身体ごと飛び込んでいける。
このブラウザのなかで、何日間かの時間を過ごした。
黒い水のなかで(この水がいわゆる「H2O」なのかどうかは判らないのだが)、
呼吸と栄養補給と排泄とが可能な仕組みにつくられている。
閲覧したい場所を決めると、そこまで泳いでいき、
胎児のように静かに身を屈める。
すると頭の中に情報が映像や音となって入ってくる。
冷静な情報は冷静な気分で脳に入ってくるのが判る。
エンターテインを狙ってつくられた情報は、
刺激的な楽しい気分を感じることができる。
そして、個人の思いがぶちまけられたようなページでは、
制作者の気持ちがそのままこちらの脳にまで波及してくる。
プールから上がると、
腹の贅肉を残して全身の肉が削ぎ落ちてしまっているのがわかった。
息が落ち着くのを辛抱強く待ちながら、
バスタオルに包まって、ラジニ教授の話を聞く。
英単語を一語一語区切るように、静かに発音していく人だ。
この装置では、情報は「波」として入出力される。
視覚や聴覚のように感じられる情報も、
すべて水中の波が全身の皮膚の触覚を通じて、
脳へ映像や音を送っているのだ。
「このブラウザの最も優れた点は、『思い』や『情念』といったものをやり取りできる事だ。制作者のハッピーな気分や熱意は、波となって君に伝わっていく。同じように、悪意に満ちたページは、波となってそれを見たすべての人に悪意を伝えるのだ。」
引き戸を開け外に出ると、日は落ちかけて蒸し暑かった。
斜向かいの奥さんが柄杓で打ち水をしている。
すると、どこからか大きな雲がやってきたのか路地一帯が急に薄暗い日陰に変わった。
『この世は幻 夢の中こそ現(うつつ)なれ』
すこし前まで、世界の種類はこのふたつ。
昼間の世界と、夜の夢の世界、だった。
毛布にくるまって読む小説も
珈琲と煙草とお喋りを生む映画も、
昼の現実か、夜の夢の中を描いたものだ。
じゃあ、
誰にも知られない個人の想像の世界、
白日夢は
もうひとつの世界とはいえないのか。
いや、白日夢は世界と呼ぶには小さすぎた。
それは、昼間の世界で小瓶に詰められた紙片のようだった。
ついこのあいだまでは。
それが、いつのころからか
www.という世界が生まれていた。
世界に3つめができたらしい。
現実でも夢でもない世界。
いままで存在を知られることのなかった、
ビルの7 1/2階のように。
WILD FANCY ALLIANCE 。((c)SDP )
経緯度を越え、見知らぬ国を歩く大脳の妄想たちと直接結ばれる。
横長の長方形をしたディスプレイの中は
沼のようになっていて、
細い梯子が縦横無尽に延びている。
この世界を、
江戸川乱歩に体験させてみたかった。
マウス、キーボード、ディスプレイの時代は終り、
やがて「扉」のかたちをしたインターフェースが
登場するだろう。
それを開けて入っていく世界。
あるいは、プールや水槽型の入力装置か。
漆黒の水のなかにいま飛び込もうと屈ませた身体。
『うつし世は夢 夜の夢こそまこと
この世は夢 夜の夢こそまこと』
82年頃のイギリス人が好みそうな
朝露のようなアコースティックギターに続いて
湿ったリバーヴのエレキギターが
なげやりに甘えるように
両耳のイヤホンから流れてきた。
電車はゆっくりと降る霧雨のなか
長い橋を渡っていく。
頭の中には、1曲。
鳴りつづけている。今も。
急に駆けだすと、音が飛んで、また途中から。
陽射しが烈しい分、日を遮られた路地は、くっきりと黒い。
石の壁に挟まれて、ひんやりと何かの匂いがする。
小刻みに爪の音を響かせて、黒い犬が出かけていくのが見えた。
さっきから古い教会の塔が、片面を光に焼かれて、ずっと頭を出しているのだが、
どう登ればそこまで辿り着けるのかが、解らない。
どこにも人間がいないので、動悸が速くなる。
Joao Gilberto「三月の水」の3曲目に突然、
歌のない「靴屋の坂道で」という曲が入っている。
行き止まりにならない路地を見つけ、
調子づき坂を登っていく。
塔の裏側は狭い広場になっていて、
禿げ上がった、楕円球の頭の男がたったひとり、小枝を手に
黒くてらてらした肌の犬をしつけていた。
小さな胴体に小さな足を付けたような女児が、
バトンを振り回して遊んでいた。