2006年05月31日

またある人が言っていた。

プロセスや目標を宣言しても、人は聞く耳を持たない。

すでに成し遂げた事実だけに、人は耳を傾ける。

それが今の時代。

2006年05月30日

昨晩はテレビで、映画『下妻物語』を見た。

人間関係に恵まれなかった人間不信の少女が友情と夢に目覚めるまで、というストーリー。
女性ならではの、人間関係構築の難しさ、
女性ならではの、偶然性に左右される人生、
などが描かれている、なんて言えるかも。


最初の30分くらいは、いちおう見入った。

読売新聞別刷テレビ版によると、「斬新な映像表現」とのことで、星4つついていたが、
私は別の評価だった。

監督は、CMディレクターの中島哲也。
読売新聞のいう「斬新な映像表現」は、
もうすでにブラウン管で、「Jフォン」や「きっかけはフジテレビ」や「LOVE BEER」などの素晴しいCMの中で見たことのある映像だった。

もっと言えば、『鮫肌男と桃尻女』(石井克人監督)以来、『真夜中の野次さん喜多さん』(宮藤官九郎監督)に連なる、
強烈な「既視感」を感じてしまう「映像表現」だった。
「あ、またこの手の『斬新な映像表現』か・・・。」
「あ、また荒川良々か・・・。」(笑)

(※『SURVIVE STYLE 5+』(関口現監督)や『ナイスの森』(ナイスの森監督)も、こんな感じなんだろうか。なんだろうな。なんだろうか。なんだろうかねぇ。まったく。見てないけど。ちがったら嬉しいけど。似たたぐいだったら、ホントかなしい。別の人間がつくるものがみんな似てしまうなんて・・・。)

もっと言えば、ジャン=ピエール・ジュネや、ガイ・リッチーという先達を上手に消化したこういう映像表現を、なぜ読売新聞は「斬新な映像表現」などと書けるのだろう。


5月22日の日記に書いたことを思い出す。

小説も、商品も、マス化するものには、あるファクターがある。(中略)
読者にとって、「思いあたるふしがある」「身につまされる」「人ごととは思えない」ことが書かれているかどうか。
あるいは、魅力的なキャラクターがいるかどうか。文章が美しいかどうかということもあるだろう。

この映画は
キャラクター設定も、映像も、刺激的(濃い味付け)なので、
マス的にヒットしてもおかしくはないと思う。

でも、
「身につまされる」「人ごととは思えない」ことが書かれているか
という点ではどうか。

・人間関係(家族関係)に躓いた少女
・友情を知らない少女
・夢の実現を目の前にすると人は臆病になる

これらのことが描かれているのだが、
それが「身につまされる」「人ごととは思えない」ほどにしっかり描かれているのかと言えば、
なんとなく、マンガのように表層的に見えるのです。

(現代では「感動」や「涙腺」にも定石があって、
現代人はその方程式で見せられると
パブロフの犬のように感動させられてしまう、みたいな・・・。)

でも、
「それが『イマ』なの。」と言われれば、(誰に?)
そうなのかとも思ってしまう。
たしかに
その軽薄で浅はかな描き方こそ、
決して本音を言わない現代っ子らしさをよく表しているとも思える。

クドカンの
『真夜中の野次さん喜多さん』を見て、
ある男が
「前半はボチボチって感じだったけど、後半で夜中に小池栄子が米を磨いでいるシーンは、エラく身につまされた。」
と言っていた。

アップテンポなカット割、
シュールな展開、
劇中劇、楽屋落ち、
マンガ的デフォルメ・・・etc.etc.
そんなドタバタな表現のなかに、ちょっとだけ「身につまされる」「人間の真理」を忍ばせるのが
シャイな現代人らしい表現作法なのだろうか。

(まるで、ファニーなキャラのオレンジレンジがたまに歌うバラードのように・・・。)

(え?何て?)


オレの夢想。
(オレって誰?)

①『下妻物語』を見て「最高の映画だ」と感動している若い女の子に『東京物語』を見てほしい。

②『下妻物語』を、『珈琲時光』の侯孝賢に監督させて、比べてみたい。


PVみたいな映像表現もいいけど、共感もね。

こんなことを考えてしまうのは、
もしかしていま私が、『枯木灘』(中上健次 河出文庫 昭和55年初版)
などを読んでいるからだろうか。

2006年05月22日

ある人が、こう言っていた。

小説も、商品も、マス化するものには、あるファクターがある。
純文学でもベストセラー化するものもあれば、
一部の学者にしか評価されないものもある。
その違いはなにか。
読者にとって、「思いあたるふしがある」「身につまされる」「人ごととは思えない」ことが書かれているかどうか。
あるいは、魅力的なキャラクターがいるかどうか。文章が美しいかどうか、ということもあるだろう。
そのマス化のファクターを、ケースバイケースで見つけていくことが大事なのだ。

2006年05月21日

村上春樹を読み終えてからすぐに、
読み止しだった『姜尚中の政治学入門』(姜尚中 集英社新書 ISBN4-08-72033-1)
の残りを読み終えると、
拾い物の
『センセイの鞄』(川上弘美 平凡社 ISBN4-582-82961-9)
を読み始め、数日後、読み終えた。

やはり初体験の川上弘美である。
以前ある女の人が
「川上弘美は『センセイの鞄』だけ読めばよし。」
と言っていたので
ちょうど良い。

いい本だった。

のんびりと、何事も起こらない毎日の、
小さな風流をめでるような、
俳諧めいた、
そしてエッセイやコラムのように読みやすい、
そんな展開に

途中までは、
「なんだか、けっこう好きな本」
と思いながら、反面、
アタマのなかからこんな意地悪な声もきこえてきた。

「現代の生活のなかに、懐石料理のような、
ちんまりした風流や季節をめでるような
このような小説を、たしかにお前は好きだろうが、
村上龍や、阿部和重を読んだとき
現代の小説に
母語の美しさや季節を愛でる繊細な感覚は無いのか、
なんて
ひとこと言いたそうだったお前が求めていた
現代の美しさ
なんてのは
こういうことをいうのか?
こういう盆栽のようなものが欲しかったのか。」

いやいや、私が求めているものにくらべれば
たしかにちんまりしているけど、さ。


しかし、
後半をすぎ
最後まで読み終えると、
この本は
そんな盆栽のような本ではなく、
恋愛小説だった。

登場するのは
四十手前の女性と
老人なのに

ラスト前の章では、青春恋愛小説を読んでいるかのような気持ちになった。
むしろ、少年少女恋愛小説、か。

1989年に読んだ『十六歳のマリンブルー』(本城美智子 集英社文庫 ISBN:4087494209)
を思い出して
あの本以来だなあ、こんな気持ち、なんて思ったりした。

(なんだそりゃ。)
(恋愛小説なんて、ふだん読む機会ないからさ。)


そして、最終章で、
青春小説と匂いは似ていても、
絶対的に
青春とは異なる
年齢という
もうひとつの切なさが
心に残った。


2006年05月16日

村上隆が自身の芸術のコンセプトに
「スーパーフラット」というキャッチーなネーミングをつけて
欧米の芸術市場に戦闘を挑んでいたころ、

「スーパーフラット」なるコンセプトの解説なんかをしていた批評家の東浩紀のブログに、
面白いことが書いてあった。

村上隆と知的財産権

「スーパーフラット」って、もう2000年の頃の話なのね

村上隆といえば、
アートディレクターの奥村靫正さんが、かなり早くから評価をしていたような気がするのだが(気のせいかしら)、
日本画と現代美術の接点、みたいなところで村上隆に共感があったのかしら。

はるか昔、とある酒場で
偶然カウンターの隣に
奥村靫正さんが座られて、
それから数時間(?)、「YMOとその時代」てな話をさせていただいた記憶があります。

いま思えば、若者の拙い話につきあっていただいたみたいで
なんだか恥ずかしい。

その酒場には、その一度しか行くことがなかったので
それきり二度とお目にかかることはなかった
・・・

こんな話を書くつもりはなかったのだが。

つらつら。

2006年05月12日

5月7日(日)の夜、村上春樹「風の歌を聴け」を読了。

この作品のことは
はるか昔、書店で立ち読みして出だしの2行で嫌悪した小説だと思い込んでいたが、
思い違いだった。

不快感はなかった。
ありきたりの感想だが、爽やかでせつない雰囲気の出来事が綴られている。

向井敏が、日本の小説ではないような、と評していたその文体も
もちろん新しかったのだろうが、

同じく新しかったのは、この小説の仕組みだろうか。
日記的なストーリーをサンドイッチするように、
頭とおしりに自己紹介的なモノローグで、架空の小説家や、自己の文学観が語られている。
この、微妙にメタでフィクションな感じが、
あいだにはさまれたストーリー部分にも
ホントのようなウソのような、
あいまいな不思議感をかもしだしているようだ

昨日引用した石原慎太郎のコメントのように
すぐに風化してしまうような表現はあまり見当たらなかった。
1979年の作品。

「村上春樹と芥川賞」というページを見つけたので付けておく

2006年05月11日

5月7日(日)の読売新聞朝刊書評面に、「本の森」というコラム欄があり、
石原慎太郎が書いている。
見出しが「現代小説は古典たり得るか」というものなのだが、このコラムが
先日(5月3日)ここに書いた
「アタマの大きな人が身体的・ストリート的・不良的小説を書けるのか」
「時代の先端を描くのに水モノをネタにする必要があるのか」
という問題の参考になりそうなので、
長めの引用をさせていだだく

 「この現代に新しい小説をものにしようと志している若い作家たちに一つだけ確かにいえることは、自らの作品もやがては古典たらんと欲するなら、今まみえている風俗にいたずらに媚びてこだわらぬことだ。特に現代の若者たちの使っている奇矯な言葉づかいをそのまま持ちこむのは控えた方がいい。そんなものは後一年も経てば陳腐を通りこしほとんど意味も成さぬものにしか響きはしまい。言葉の風俗としての腐蝕は往々作品の本質さえ疎外してしまうだろう。
 私自身の心得として、私は手掛けた青春主題の作品の中で当時の言葉の最先端風俗だった、私たち湘南族が真似して使ったジャズマンたちのひねった用語を使うことは決してなかった。それは風俗なるものの、実は文学にとって無縁に近い本質を感じてのことだった。言葉の風俗にしきりに媚びている現代の多くの若い作家の作品に私がある疎ましさを感じる所以もそこにある。」

2006年05月10日

5月7日(日)
夜、テレビで『世界ウルルン滞在記』を見ていた。
シチリア料理へ入門する話で、出演者たちのあいだでは「料理に心を込める、とはどういうことか」が話題になった。
そのとき石坂浩二が「あるテンションをもって料理すること」と言っていたのが心に残った。
「料理をするにはあるテンションが必要だ」と言っていたのかもしれない。

その言葉と、
キューピーマヨネーズの「料理は高速へ」という広告シリーズが
頭のなかで交わった

2006年05月08日

ALESSANDORO MENDINI.jpg

5月6日(土)晴れのち曇り

『カルティエ現代美術財団コレクション展』東京都現代美術館(2006/4/22〜7/2)

写真は、エントランスホールに飾ってあったアレッサンドロ・メンディーニの作品。
カラフルな巨大な椅子。とてもかわいい。★★★の評価。


1F)

●ライザ・ルー:★★★ 立体。日常風景の原寸大模型が、すべて小さなビーズでつくられている。芝生と花畑のある庭。テーブルにはハンバーガーとビールのランチ。芝刈り機と物干し、二頭のフラミンゴが歩いている。ビーズの原色が遠目には幻想的に美しい。近寄って見ると芝の一本一本までがビーズで作られており、思わず気が遠くなる。制作に4年かかったとのこと。

●アレッサンドロ・メンディーニ:★★ 立体。小さな礼拝堂の中は、すべての壁が金色のタイル張り。中央にはやはり金色で幾何学的な顔の仏像のような大きな頭像。

●ポーラン・ドメルク:★★ 立体。カラフルな糸を渦巻き状に盛り上げてつくる小さな作品群。他にマッチ棒でつくった抽象模型や食パンでできたサンダルなども。

●ジャン=ミッシェル・オトニエル:★★ 立体。カラフルで飴のように半透明な素材でつくられた抽象立体。ビーズを使ったものも。

●デイヴィッド・ハモンズ:★ 立体。アフリカの面を幾重にも重ねた一番先には、使い古いしの鏡が。

●リチャード・アーシュワーガー:★★★ 立体。黒く巨大な「...?」。かわいい。タワシブラシのような素材。「?」の上部分は、上から吊られているので、ゆっくり回る。

●マルク・クチュリエ:★ 立体。五つ並んだ小ぶりな樹。柿のような色の実をつけている。

●ヴィヤ・ツェルミンシュ:平面。

●ロン・ミュエク:★★★ 立体。タイトル「イン・ベッド」。皮膚の質感まで精巧につくられた超巨大な女性像。ベッドから物憂げに眼差しを送っている。

●ヤイマ・カラサーナ・シウダ:★ 映像。赤ピンク色の光る布の上を踏みながら歩く馬の足。布が終わり、地面の上に出ると馬は倒れる。なにかのメタファーだとか。

●ジャン=ミッシェル・アルベローラ:★ 平面他。ハンコのようにアイコン化された顔と文字。

2F)

●松井えり菜:★ 平面。キッチュな自画像。わりとオーソドックスな絵具のタッチで描かれている。自画像はわざと変な顔をして描いているが本人はわりとかわいいらしい(伝聞)。多摩美の学生だそうだが、カルティエ財団に所蔵されるなんて、何だか羨ましい。日本の作品はこういう感じが評価されるようですね。

3F)

●トニー・アウスラー:★★★ 立体・映像。大きなゴム風船のような球体をスクリーンがわりにして、目玉のアップや抽象的な映像が映し出される。もはやオーソドックスな現代美術といった印象だが、その感じがちょっと好き。(第1回横浜トリエンナーレのような雰囲気へのノスタルジー。)

●デニス・オッペンハイム:★ 立体。スーツを着た二人の小さな人形が、とても長いテーブルの端と端に座り、意味不明な声の繰り返しで、ののしりあう(論争する)。両者は黒と白に塗り分けられ、アイデンティティのアンビバレントを表現しているとかいないとか。
そういう解説、嫌い。

●ボディス・イセク・キンゲレレス:★★★ 立体。タイトルは「三千年紀のキンシャサ」だったかな。未来都市の模型。子供が描いたSFマンガのように、カラフルでポップ。タバコやチーズなどの空き箱が、所々に利用されていて実にかわいい。作った人にも、所蔵しようと決めた人にも、感心する。

●シェリ・サンバ:★ 平面。サングラスをかけた人物像。赤道が近い鮮やかな色合い。最近の展覧会のタイトルは、「シェリ・サンバが大好き」。とてもかわいい。

●アラン・セシャス:★ 立体。巨大な頭部を持った白い人形。パパの絵を描くガイコツたち。

●アルタヴァスト・ベレシャン:映像。

●クラウディア・アンデュジャール:★ 平面。植物とアルファベットの線画だったか。

●アドレアナ・ヴァレジョン:★★★ タイルを切ると、断面は内臓。タイルを割ると、中は内臓。

●レイモン・ドゥバルドン:★★ 映像・写真。裸族の男たちがジャングルで狩をする様子。なんだか不思議な気分。

B2F)

●レイモン・アンス:★ 半立体。ゆがんだ金色のカルティエロゴ。

●ジェームズ・コールマン:★★★ 映像。ボクサーの映像が心音のリズムで暗転し、心の声が響く。

●ポーラン・ドメルク:前述

●ナン・ゴールディン:★★★ 写真。「デジャヴ」誌で写真は見たことがあったが、実はよく知らなかった。大量のスライド写真をみせてもらって面白かった。ジャームッシュ、ウォーホール、カップル、ベッド、ゲイ、etc.etc.

●森山大道:省略

●ウィリアム・ケントリッジ:★★★ 映像(アニメ)。木炭で描かれたアニメ。不思議な音楽。青い光線が、電話線のように人々をつないでいく。ときどき左右似たような二画面分割になる。タイトルは「ステレオグラム」だったか。なんだかとても好き。デジスタあるいは旧東欧の束芋。作者は南アフリカの人だったか。

●ウィリアム・エルグストン:★★ 写真。ニューカラー。高橋恭司とヴェンダースを思い出す。

●レイモン・ドゥバルドン:★★ 映像。前述の裸族の映像と同じ作者。「リオ」「上海」「東京」「パリ」「モスクワ」「アジスアベバ」「 」「ニューヨーク」の映像が同時に流れている。依頼を受けて制作したものだとか。もしも24時間ぶんを定点撮影して全て同時にシンクロさせて上映したら感動しただろうな。でもこの作者はそういうギミカルな人じゃないみたい。

●川内倫子:省略

●サラ・ジー:★★ 立体。脚立や糸やロープなど各種カラフルな線状の素材がくねくねと伸びて巨大な作品に。躁状態で発狂した内藤礼、と言った人がいる。

●マーク・ニューソン:★★★ 立体。SFのようにかっちょいい飛行機の現物。「ケルヴィン80」。

●パナマレンコ:★★ 立体。宮崎アニメに出てきそうな、ブリキの空飛ぶ潜水艦って感じ。

2006年05月03日

村上龍といっしょに図書館で借りた
阿部和重『インディビジュアル・プロジェクション』(新潮社 ISBN : 4-10-418001-7)の感想文。

・・・

刊行は1997年。
『五分後の世界』の三年後の作品。

インターネットは、まだない。
もちろん物語の中にもネットは出てこない。

そういう意味ではとっても牧歌的な時代の小説だ。

しかし
この本は、
来るべきネット時代を予見したかのように
「情報が錯綜する時代」や
「正しい情報収集が困難な状況」のことを
描いている。

舞台となる「渋谷」は、多すぎる情報の象徴。情報錯綜の象徴だろう。

そこで繰り広げられる、バイオレンスや諜報に満ちた「戦争」状態は、
情報錯綜時代を生き抜くことの比喩なのか。

そして
そんな世界をサバイブする最善の方法は
『みんなわたし』
という状態になることだ
と暗示的に述べられている。

これは、どういう意味だろう。
全個人の知をリンクせよ、という意味なのか。

いずれにせよ、
サバイブ感覚という面では、『五分後の世界』に通じるものが底に流れている。


情報の時代だから、身体感覚を。

脆弱な時代だから、肉体感覚を。

不安定な時代だから、サバイバル感覚を。

不信に満ちた時代だから、戦闘感覚を。


巻末の、執拗なまでの「参考文献一覧」を見ても、
この小説が単なる「渋谷バイオレンスもの」などではなく
著者の「情報・諜報・戦闘・サバイブ」への
意図や執着が感じられる。

・・・

と、ここまでがこの作品のプラスな感想。

・・・

この本を読んでいるあいだ、

ふとしたきっかけで

夏目漱石の『二百十日』を読みかえした。

(偕成社 ジュニア版日本文学名作選4 『坊ちゃん』所収 昭36刊)

(※余談ながら、この本の宮田武彦先生の挿絵が、何度見ても涙が浮かぶほど良い!)

『二百十日』という話は、分解すれば

「二人の男の阿蘇登山」というエンターテイン部分と

「庶民を圧迫する金持ちに天誅を」というメッセージ部分で成り立っている。

(後者は、主人公の男の持論という形でさりげなく繰り返し述べられる。)

そして
どちらが欠けても物足りないくらい
演出と、メッセージが、バランスよく同居している。

しかも漱石が長けているのは
そのエンターテイン・演出部分の見事さである。

会話を書けば、落語のように軽妙な掛け合いとなり、

叙景をすれば、俳諧のように心にしみる表現をする。

この「エンターテイン部分」において
『インディビジュアル・プロジェクション』は、
とても評価が分かれる作品だと思った。

(ようやく話が戻った・・・。)

・・・

例によって、読後にAmazonのカスタマーレビューを見に行った。

この作品の「メッセージ部分」に言及しているコメントは見当たらず、

だいたい「エンターテイメント部分」への評価である。

しかも大いに二分している。

1:「シブヤ・今の時代・ストリート・戦争、最高! 常盤響の表紙、最高!」という意見

2:「ストリート・バイオレンス、三流パルプ小説、ケッ!」という意見

どちらも気持ちはわかる。

ただ、冒頭に私が書いたようなことが
この本の「メッセージ部分」だとすれば、
私は
そのような「メッセージ部分」とバランスが良いのは
どのような「エンターテイン・演出」なのか、というカタチでこの作品を分析したい。

・・・

で、感想つづく。

・・・

この作品の文章は、マズい。

設定が、多少精神を病み始めている男の日記、というものだから

マズいことに文句がいいづらいのだが、

決してステキな文章じゃない。

(Amazonカスタマーも、二度読みたいと思わないって言ってたな。)

そして、舞台が渋谷だ。

そのことも、いまいちダサい。

過去の作品の評価にダサいは禁句だろう、という人がいるかもしれないが、

音楽の渋谷系が90年前後だから、

97年の渋谷が時代の先端とは思えない。

(そもそも、時代の先端を描くのにそういう水モノをネタにする必要があるのだろうか。同じ芥川賞作家のコンテンポラリー小説「蛇にピアス」や「蹴りたい背中」などとくらべて、どうか。)

偶然併読した『二百十日』と比べるのも
変な話かもしれないが
エンターテイン部分が、大ざっぱで、低レベルで、何かおもねりを感じてしまう。

時代を描くこととおもねることが混同されてる気がする。

以上ここまで、上記Amazonの「2」の意見と似た感想。

・・・

しかし、待て。

阿部和重をなめてはいけない。

そんなに一筋縄な人間のはずがない。

このイビツな文章は、「メッセージ部分」を伝えるための手段なんじゃないのか。

だいいち私、他の作品も読んだことないし。

インタビューを探してみる。

あった。『グランド・フィナーレ』芥川賞受賞のあいさつ

「そして、辞書には載っていない言葉と逆に辞書にしかのっていない言葉、その二つをうまく組み合わせていびつな文学を形作っていくという、自分なりの試みを今後もしつこく続けていきたい。」

・・・イビツ確信犯か・・・。
しかしなぜ。

愛読者によるレビュー

「ちなみにこの割り切られた二重構造こそがぼくは「インディヴィジュアル・プロジェクション」の魅力であり、現在を映した鏡でもあると思います。都会の日常生活には使い回しの純文学はもはや根ざしてないのかもしれません(というふうにぼくは新文学を感じとっているのです)。 」

美文は過去。イビツな現代にイビツな文章を。ってこと?

ふたたびインタビュー

「僕は97年からインターネットを始めたんですが、その頃って掲示板が本当に面白かったんです。なかでも興味深くチェックしていたのは新聞記事を貼り付けていくタイプの、陰謀論系のサイトだった。そこから情報を追ううちに、ネタに出来そうな記事が見つかったりもしたし、陰謀論系の知識が自然に身について、作品にも生かせました。 」

97年にネットやってたんだ。
さっき97年にネットなかったって書いちゃったよ。

さらにインタビュー

「80年代までは、たとえば浅田彰氏のように、全ジャンルを見渡す『知』が可能でした。ところが90年代はインターネットによって情報が一気に細分化し、その結果ジャンルの内部も分断され、網羅不能になってしまった。これが高度情報化社会の皮肉な実相なんですよ」

「僕の予言ではなく、情報が広く速やかに行き渡るネット社会が、虚構と現実の関係を言い当てやすくした。その変化にこそ、着眼すべきでしょう」。

「とくにロリコン嗜好(しこう)は、いわゆるオタク産業の関心とダブりつつ、しかし絶対に擁護されない社会の禁忌。小説でそれを書けば悪を追求する作家と見られてしまうけれど、真っ黒な悪を書くつもりはない。人間は常にグレーゾーンにいる。その中の振幅を表現したいだけ」

現代を表現するためのイビツな文章。
現代の象徴としての、「最後の禁忌」。

このイビツな「エンターテイン表現」は、「メッセージ部分」を伝えるための
計略だったというわけですね。

わかりました。

・・・

わかったうえでの私の感想つづく。

その1)

現代というグレーな時代を、

きれいな母語を使って書くことは、果たしてできない相談なのだろうか。

美しい祖国語の表現は消えていくのか。

私は単なる保守老人か。

その2)

それにしてもこの作家の(否この作品の)

身体表現とストリート表現は、ダサい。

アタマの大きな人が書いた不良小説の匂いが、とてもステキじゃない。

この問題は奥が深そうだ。
村上龍や都知事や熊野路地の本から読み直さなきゃいけないかな。

文学とストリート、
文学青年と不良、 
原稿用紙と身体感覚、
ペンとケンカ。

だれかわかりやすく解説してくれてないかな。
柄谷行人とか。

そういえば以前読んだ
高橋源一郎の文章読本に、本当の「身体文章」がのってた気がする。
(『一億三千万人のための小説教室』岩波新書 ISBN: 4004307864 )

小説家でも
文学家でも
作家でもない人が書いた
本当のストリートアンダーグラウンドサブカルチャー表現が。