(つづき)
青森から弘前までの車窓は、
とても素敵だ。
爽やかな風が吹いている。
2002年にも、
鈍行の先頭車両で運転手の頭ごしに、そう思った。
(そのときは、弘前から青森へ、だったけれど。)
スイッチバックで青森を出た車窓は、
私の体の向きとは逆に
去っていくように流れていく。
青森を出てしばらくは、
線路の両側に、樹々が美しく立ち並んでいる。
まるで旧街道の見上げるような杉木立のように
整然と。
ちょうど線路の両側を飾るためだけのように、
しかし自然に、立っている。
列車はその間をくぐるように駆け抜けていく。
並木のむこうは、まっ平らの田園だ。
ときどき樹々が深くなるところがある。
列車の窓に枝が触れそうになる。
一瞬、長万部から倶知安へ向かう、函館本線を思い出すが、
曲がりくねった函館本線とはちがって、
この線路は、ひたすら一直線。
まっ平らを、一直線が、つき進んでいく。
爽やかな風が吹きぬける。
やがて、視界が広がり、
背の低いりんごの果樹園、田園、家屋、が順番に
目の前を飛び過ぎていく。
まっ平らの先は、
いかにも東北らしい、青い色をした山並みだ。
「ここは、日本離れしている。」
まるで南仏の田園地帯のような、なんだか無国籍な風景だ。
不思議なくらい、けばけばしい広告が、ない。
奇っ怪な建物が、ない。
家屋が、つつましい色合いで、なんとなく調和している。
林檎果樹園、水田、家屋、
林檎果樹園、水田、家屋、鉄道建造物、
林檎果樹園、水田、家屋。
無国籍な風景が、ミシェル・ゴンドリー監督の『STAR GUITAR』(Chemical Brothers)
そっくりのパターンで、ベースラインとリズムトラックを刻んでいる。
耳元で鳴っているMDが
なぜか
『MORNING TRACKS(2)』(ASIN: B00005G5ZJ )
だったからかもしれない。
そうして、
列車はだんだんとスローダウンしてゆき、
たくさんのじょっぱりと、数えきれないえふりこきを
生み育てた
北の小さな奇都、
弘前へと吸い込まれていった。
夏なのに、クーラーのような風が吹いている。
ようするに、(つづき)
こりゃ、大人の仕事を超えてるよ。
と、思ったわけです。
・・・
というわけで、
弘前の「A to Z」展、
明けて今日が、内覧会です。
私は行けませんが、代わりの人間が行きます。
29日の初日には、行けるかもしれません。
・・・
敬愛してやまない大ファン、というわけでもなく、
片や、その純粋さにおそれをいだき、
その大成功ぶりに嫉妬をいだき、
アンビバレントな気持ちで
この誰も見ないブログから
展覧会の無事と成功をお祈りしております。
敬具
なんてことを考えていると、(つづき)
ふと、ある文章を思い出した。
それは、
向井敏の『文章読本』(文春文庫 ISBN4-16-717002-7)に教えてもらった
G.K.チェスタトンの素敵な文章。
奈良美智の「A to Z」の先に感じた
「学園祭的なものへの、おそれ」とは、
こんなことだったような気がしたのだ。
長くなるが
引用してみよう。
「大人が誰もおもちゃで遊ばない理由はただ一つ、それももっともな理由で、つまり、おもちゃで遊ぶのは、ほかの何よりも時間と面倒を必要とするのである。子供が遊びというその遊びは、世にも真剣なもので、われわれ大人がその小さな義務や小さな悲しみに加わったが最後、われわれは人生の厖大な洋々たる計画をある程度放棄せざるをえなくなる。われわれは、政治や商業や芸術や哲学をやる力はある。しかし遊びをするだけの力は持っていない。これが事実であることは、子供の時に何かで遊んだことのある人、積み木で遊んだ人、人形で遊んだ人、ブリキの兵隊で遊んだ人なら誰でもわかると思う。私の新聞記者としての仕事は、金をかせいでくれるが、何もかせがないあの仕事のように恐ろしい一途な熱心さでは営まれはしない。
たとえば積木。かりに、あなたが、『ヨーロッパの建築の理論と実践』について十二巻の本を出版するとすれば、その仕事はなかなか骨が折れるだろうが、根本的にはたわいないものなのだ。子供が積木を一つ一つ重ねて行く仕事が真剣であるほどには真剣ではない。その理由は簡単で、もしもあなたの本がつまらない本でも、誰もそれがつまらないことを究極的に完全に証明することはできない。それにひきかえ、積木の釣合いのとり方がまずければ、積木は容赦なく崩れてしまう。それに、私が子供というものをいくらかでも知っているとすれば、子供はもう一度厳粛に悲しげに崩れた積木を組立てるはずである。ところが、私が本の著者というものをいくらかでも知っているとすれば、彼は何と言われようがもう一度本を書き直すことはおろか、考えなくてすむものなら、その本のことなど二度と考える気づかいはない。
(中略)
大人が子供のゲームに加わらないのは、だいたいにおいて、それが面白くないからではなくて、要するにその暇がないからだと言える。これほど重大な、厳粛な計画に、労力と時間と頭を使っていられないのである。私自身、この間から、小さなおもちゃ劇の場面をつくろうとしている。(中略)
ところが、今まで物語や論文を書いた時よりもよほど一所懸命おもちゃ劇場に精を出しているのだが、どうにも仕上がらない。この仕事は私には荷が重すぎる。途中でやめて、もっと軽いもの、たとえば偉人伝か何かに手をつけないではいられない。
(中略)
こういうことから、私は、不滅性のほんとうの意味について、ある感慨をもつ。この世では、結局、純粋の楽しみなど持つことができないのだ。そのわけは、一つには、純粋の楽しみがわれわれにもわれわれの隣人にも危険なものだということだが、また一つには、純粋の楽しみがあまりにも面倒だというところにある。かりに私がほかのもっとよい世界にいることになれば、ひたすらおもちゃ劇場だけやっていられるくらいの時間があって欲しいものだし、芝居の少なくとも一つくらい滞りなく演ぜられるだけの、天上的、超人間的なエネルギーが持てればいいと思う。」
(G・K・チェスタトン「おもちゃ劇場」より引用 『棒大なる針小』(別宮貞徳訳。『G・K・チェスタトン著作集』第四巻。初刊昭和五十年、春秋社)に収める。)
婉曲で誇張した表現が、
ユーモアとペーソスを含んでいて、
余韻に大きなものを感じる
そんな文章だ。
・・・
まさにこれが、
「A to Z」展のホームページを見て
直感的に思ったことなのだ。
言うまでもなく、
この文章のなかの「遊ぶ子供」と、
「A to Z」の奈良美智が重なって見えたのである。
・・・
引用しながら
気がついたのだが、
この文章を、初めて読んだとき、
この意見に、感覚に、完全には共感できなかった。
子供の遊びより大人の仕事のほうが楽だ、という気持ちに。
そのことを思い出した。
アタマではわかったが、心では
子供の遊びのほうが、楽しくて、楽な作業だと思っていた。
(いまでも少しはそう思っている。)
そして今、
奈良さんを見てこの文章を思い出すというくらい、
この文章に共感を抱きはじめている。
(それでも、いまだ、最後のブロックは、
アタマでしか読めなかったけど。)
また一つ、私が、いつのまにか社会化している。
時の経過に、ちょっと動揺した。
もう、止めることはできない
不可逆、そして、社会化。
というわけで(つづき)、
奈良美智さんは、
この7月29日から、
弘前の吉井酒造煉瓦倉庫での3度目となる展覧会
「A to Z」展を開く。(奈良美智+graf)
この展覧会は、もう1年以上前から
やたらさまざまなメディアで
告知・宣伝されてきていたので
よく知っていたのだが、
つい先日、初めてホームページを覗いてみた。
そこに奈良さん自身のブログが
載っている。
(奈良さんのブログを読むのは
Happy Hourでの日記が中断して以来だ。)
奈良さんだけでなく、ボランティアスタッフや関係者、
この展覧会を準備しているいろいろな人々の
ブログも載っていて、
生々しい息づかいが聞こえてくるようだ。
読んでいると、
皆が
途方も無い規模の
学園祭の準備をしている
ように見えてきて、
なんだか意識が遠くなった。
奈良さんにとっては、
これが職業だ。
仕事だ。
関係スタッフにとっても、
これは、
仕事だ。
ボランティアたちにとっては
どうだろう。
忘れられない、
かけがえのない思い出
であり、
これを次のアクションにつなげる人もいるだろう。
いずれにせよ
仕事
で
学園祭
を
やってしまう姿に
私は
おそれ
を感じてしまう。
せつない思い出といっしょに
シャボン玉のように
はじけてしまいそうな
学園祭
的なもの。
それが、仕事
であることへの
おそれ。
(畏れ? 恐れ? 怖れ?)
仕事というのは
泡のようには
なくなっていかず、
堅牢な
橋頭堡を
築いていくように、
確実なものを積み重ねていく
そんなイメージがある。
なぜか。先入観だろうか。
どんなに楽しい仕事でも、
また、
どんなに入れあげている仕事でも、
こんな風に、
まるでいつか
泡と消えていきそうな
ものに
思い出と情熱をささげている姿を見ていると
どうしようも耐えられなく
せつない気持ちになってくる。
(これが、おそれ?)
言ってること、わかんないかな~?
(自分でも、ちょっとわからない。)
奈良さんにとっては、
確かに次につながっていく
堅牢な一歩だろう。
今回の作品が、
世界中に買われ、
永久に世の中に残っていく。
そのための一歩。
(大きな一歩。)
まわりのスタッフはどうだろう。
仕事であれ、ボランティアであれ、
こういうものに
全身全霊をかけて
たずさわったあと、
そのあと、
ひとはどんな状態になってしまうのだろうか。
(ちなみに
ハナレグミの永積タカシ君は
ツアーの後は
虚脱・鬱状態になって
「かえる」になっちまうんだそうです。)
どうやら、
わたしは
それを
おそれているらしい。
(恐れ? 怖れ? 畏れ?)
この展覧会のホームページにあふれる
FEVER状態。
消えて無くなって
しまうかもしれない
ものへの熱狂と
そして
そのあとに
くるものに
耐えられない
がために
冷静でしか
いられない
人間なんて。
2002年8月5日(月)
奈良美智「I DON'T MIND IF YOU FORGET ME」展
〈弘前市 吉井酒造煉瓦倉庫 2002年08月04日(日)~2002年09月29日(日) 〉
その初日を観に行った翌日の感想文。
-----Original Message-----
Monday, August 05, 2002 6:06 PM
奈良さんがこども時代を過ごした故郷で、
こどもばかりを描いている奈良さんの絵を見る。
そのことが持つ意味の深さが、
展覧会を見ている最中よりも、
帰ってきて一日たった今になって、感じられてきました。
いままで私は、なんだか漠然と、
奈良さんはこどもを描くのが好きなんだ、と思ってました。
それが大人の姿の比喩だったりしても、
それをこどもの姿にして描くのが好きなだけなんだ、と思っていました。
描かれるこどもは、奈良さんにとって、対象であり他人だと思ってました。
しかし、弘前展のチラシ裏面の文章や、
A-ismに寄せた文章を読んでいるうちに、なぜだか、
奈良さんは、自分のこども時代のことを描いているんだ、
と思えてきました。
じぶんのこども時代に固執する人、それが奈良さんだと思いました。
こども時代が忘れられない人、忘れたくない人、です。
そう思うと、
描かれている女の子も、もしかしたら何割かは奈良さん自身だったり
するのでしょうし、自身ではなくても、
大人の眼が見たこども像というより、こども時代に見たこども像の記憶
という気がしてきます。(それは考えすぎか。)
また、
今回の展覧会のタイトルも、
横浜展の時の解説では、「僕のこと忘れることなんかできやしないさ。」
という反語的な意味だと書かれており、
なんとなくその「僕」というのは奈良さんが皆に向かって言っているのかと
受け止めていましたが、
今回、その「僕」というのは、奈良さんの(じぶんの)こども時代の思い出たち
で、
こども時代の思い出が、奈良さんに向かって言っている言葉なのか、
と思いました。
だから、「忘れてもかまわないよ。」と言っているのは、
奈良さんが蒐集してきた思い出たちであり、
こども時代に固執してきた画家、奈良さんが、あえて
その固執をいったん、まとめて片付けようという
大いなるチャレンジが、あのタイトル作品なのだと感じました。
(そしてだからこそ「忘れることなんかできやしない。」という反語的な
意味が活きてくるのでしょう。)
そう考えると、
この展覧会ツアーは、
奈良さんの、「じぶんのこども時代への固執」への終止符
ととることもできそうです。
なにかまったくあたらしいものが描きたいんだ、という画家の気持ちが
見え隠れしているようにもとれます。(また考えすぎか。)
でもやっぱり「忘れることなんかできやしない」のか。
いずれにしても、
じぶんのこども時代のさまざまな記憶やイメージが、
カタチを変えて作品になった今回の展覧会は、
他のどこよりも、弘前で見るのにふさわしいと感じました。
少なくとも、横浜で見るのとは、その意味が、全く異なって見られました。
もしも、
会場のそとの賑わいもなく、
奈良さんへの先入観(予備知識)もなく、
偶然、あのような場所で、あの展覧会に出会った、と想像すると、
なんだか静かな興奮が起きてきます。
私自身、
人一倍、過去の思い出に固執する人でした。
記憶をめでて楽しむ人でした。
ただ、社会人になるとともに、多くの人と同じく、そんな固執も無くなっていき
ました。
だからこそ、
こども、というひとつのテーマを描き続ける奈良さんには、
強い共感と、そしてその孤独な作業には、なんだか怖れをも感じます。
そんな感じです。
6月30日(金)
今年はじめての、カツオ叩き定食。
思えば
その店には、
カツオ叩き定食を食べに、夏のあいだにしか行かない。
つまり、今年も
その店に行くような季節になったということだ。
午後の2時をすぎた店内では
ピーク時を乗り切った従業員のおばちゃんたちが
店の真ん中のテーブルに集まって
声高に茶話中である。
一人客はカウンターに通される。
背中ごしに聞こえてくるあけすけな喋り声。
タランティーノの会話シーンより
ずっとテンポがいい。
彼女たちが知らないものはない。
MLBから韓流、政治問題から
スキャンダル、連ドラまで。
今日の話題は、魔裟斗も昔はイキがってたワよね・・・
千円札を置いて
ガラリと戸を開け、暖簾をくぐって店を出る。
この夏、
何度、
カツオの叩きを食うか。