2006年12月28日

本当なら、雑誌一冊をまるごと
この場に引用したいくらいの気持ちなのだが、

もちろん、雑誌一冊まるまる
この場に引用することなど、できるわけもなく。

もう、ひと月以上前のことだったのだが、
STUDIO VOICE 2006年12月号には、動悸が走った。

特集
「『90年代カルチャー』完全マニュアル」。

1992年12月号の、特集「YMO環境 以後」
や、
1996年4月号の、特集「Babylon 80s」

同じコンセプトの、「『あの時代』ふりかえり総括」系の特集だ。

胸の心拍数は
それらの特集のときと同じまで上がったあと、

今回は
読後、脳震盪がおそった。


で、
本当なら、雑誌一冊をまるごと
この場に引用したいくらいの気持ちなのだが、

(二度言うな。)

もちろん、雑誌一冊まるまる
この場に引用することなどできるわけもなく。

仕方ないので、
脳震盪の主因となった記事を
ひとつだけ
引用するにとどめておくことにする。

90年代のスタジオ・ヴォイス誌の編集長だった、
江坂健(えさか たける)氏のインタビュー記事だ。


そうか・・・・・・・、この人だったのか・・・。

(引用ここから 
太字は引用者による)
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江坂健/インタヴュー
90年代前半の『スタジオ・ボイス』はなにを見ていたのか?

----------『スタジオ・ボイス』で編集長をされていたのはどれくらいの期間だったんでしょうか?

「90年から95年までですね。はじめの頃は『スタジオ・ボイス』って書店の人がどこに置けばいいかわからない雑誌だったんですよ。今のようにサブカルチャーというジャンルが認識されていなかったから、最初は、六本木の青山ブックセンターで月2000冊売れたけど、地方のある県では3冊しか売れないみたいなこともあった(笑)」

----------90年代前半の『スタジオ・ボイス』では、スピリチュアル、ニュー・エイジ系の特集が印象に残りますね。

「写真集とかアメリカ・カウンターカルチャーのカタログ的な特集が多かったと思いますが、人によって印象に残る特集が違いますよね。いろいろなジャンルを横断的に見たりするという、その振り幅の大きさが自分としては、よかったかなと思っています。ハイカルチャーからサブまでフラットに扱うのも、もしかしたら90年代的かもしれない。あと僕自身、80年代に、たとえば村上春樹さんや池澤夏樹さんが好きで影響も受けたのですが、彼らの80年代から90年代前半の作品が象徴するように、社会にコミットしない、自分が気持ちよければいいという感覚が社会に共有されていたように思います。その感覚は、上の世代にとっては、70年代の政治運動への反動から自己に内省していく過程から導き出されたのかもしれません。社会にコミットしない、気持ちよければ良いということが自分の周りのカルチャーを楽しめればいいという気持ちにつながる。また、80年代末のバブルや熱狂やあふれるモノの情報への違和感も強烈にあって、カルチャーへの執着と内省がくっついたんですね。そうした時代で共有していたその感覚を僕なりに解釈して雑誌に出していたということだと思います」

----------それが95年くらいまで続いたわけですね。

「それでオウムの事件も起った。若者向けのカルチャー雑誌で、スピリチュアル、ニュー・エイジ系の情報を積極的に扱っていたわけですから、その責任は強烈に感じています。また、どこか、オウムの人たちが、他人事に思えないところもありました。また、今考えると、終末観みたいなものが強烈にあったんですよね。政治的な状況や環境問題も気になっていて、『AKIRA』の世界観のようなものが強烈にフィットする感じがあった。深いところでは終末というものがあるから、表層的な部分で遊べばいいんじゃない、どうせ最後はポッカリ逝くんだという感覚。でも95年あたりから、それだけでは楽しくならないんだと感じてきたように思います。カルチャーを語るにしても、背景にある経済や政治、社会システムをしっかり抑えないと語れない、ということです。村上春樹さんや池澤夏樹さんも、コミットメント型の小説になってきた。95年あたりに、デタッチメントからコミットメントへ、という変化が自分の中でありました

----------ご自分の中で変化があってからこの10年間で、社会はどう変化したと思いますか?

「95年からネットでのコンテンツを作るようになりましたが、やはり、インターネット登場以前、以後の差は大きいと思います。情報量が圧倒的に増え、コミュニケーションが効率化されましたから。97年からWEBマガジンの『HOTWIRED』を始めて、当初のコンセプトは、「もう一つの価値観を求めて・・・」というものでした。市民社会、エコロジー、新しいサイエンス、デジタルネットワーク、マルチカルチャー・・・・・・といったテーマを設定して、それに関連した情報を扱いながら、世の中の主流とは違う価値観を提示するという考えでした。97年頃はコミットメントすることがまだオルタナティブだったんですね。それが今は、エコとかボランティアとかいったものがメインストリームになってきた。当時、考えた通りになってきたんじゃないかという感じはあります。エコロジーに関しては、以前はまずそのイメージを伝えればいいと思っていたんですが、そういう時期は終わって、具体的なデータを積み重ねて、自分で価値観をしっかり持ち、判断する力を養うことが重要だと思います。そういう姿勢は、他の分野でも必要とされている気がします」

----------具体的な伝え方も変わったんでしょうか?

「『スタジオ・ボイス』を作っていた頃はカルチャーの動向をまとめるということが可能だったけど、それ以降はインタヴューやオピニオンをそのまま出すことが多くなっています。まとめや解説は少なくして、カオスはカオスのまま読者に投げちゃう。そこから読者に評価してもらう。まとめることが可能だと思ってないというか。そういう意味で編集者にはなかなか難しい時代だと思います。ネットでやるようになってから10年間ずっと、職業として編集者は本当に必要か、とつねに考えさせられています」

----------90年代後半にはエディットというものは喧伝されてたわけじゃないですか。サンプリング、リミックス、編集するという行為が大げさに言われて、その時点でもう必要ないと思われた、ということですか?

「必要ないというよりも、あらゆるひとがエディターだと言えるのかもしれません。あらゆる分野でますます編集が進んでますよね。デジタル技術がそれを加速させています。僕らの頃はまだ、一般のひとよりも編集者のほうが数ヶ月は情報を掴むのが早かった。海外の情報や、制作段階の情報がはいって、クリエイターの意図とかムーヴメントを抽出して出す。今は、特定の分野に関しては掘り下げてる一般のひとのほうが早かったりするでしょ(笑)。でもいっぽうで、自分の興味のあるもの以外への関心がとても薄くなっている気がします。色々な意味で編集という作業が意味を問われていると思います。今関わってるネットでいえば、コンテンツ自体を作る方向と、アグリゲーターという方向と二つに分かれますが、『グーグルニュース』のように、自分たちでコンテンツの制作はしないけど、かき集めてきて、それをパーソナライズするというアグリゲーターが増えていて面白い。最近はそのアグリゲーターそのものの構成とか設計に興味がシフトしているんですよね」

江坂健(えさか たける)/『マリ・クレール』編集部を経て、90年4月号から95年6月号まで『スタジオ・ボイス』の編集長を務める。その後ウェブ・マガジン『soft m@chine』『node246』を制作し、97年8月から『Hotwired Japan』へ参加。現在編集長を務める。00年に(有)エディトリアルを設立。雑誌、書籍、ウェブサイトなどの編修・企画・制作などを行う。www.edit-real.com


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(引用ここまで 
『STUDIO VOICE』2006/12 INFASパブリケーションズ より)


私のアタマに、ひとつの映像が浮かぶ。

95年という名前の、
サーキットの大きなカーブを曲がりきれずに、
いや、道が曲がっていることすら
気づかずに、

ただ真っ直ぐ、

そのまま、砲丸投げの球のように
ゆるやかな放物線を描いて
宇宙へと飛んでいく
私という球体を。


「デタッチメントから、コミットメントへ」

時代と江坂が大きくカーヴを切ったことには
気づかずに、

今になって、私は
自分がどうしてこんなに社会化されずに
大人になってしまったのか
キツネにつままれたように首をかしげつづけている。

自分が。
そして自分たちが。


この記事を読んで、
何もかもが、霧が晴れるように、

脳震盪を起こした。


「デタッチメントから、コミットメントへ」

気づかなかった。

デタッチメント小説『夏の朝の成層圏』
の作者である
池澤夏樹が、

(今思えば、
確かに180度異なる)
コミットメント作品『すばらしい新世界』
を書いたときにも、

私は、何の変化にも気づいていなかった。
のだ。結局。

「風力発電」も、
カルチャーで
なにかのアイテムなのだくらいに
受け止めていたのだろう。たぶん私は。

文体は変わらず池澤夏樹だから、

文体しか読んでなかったのだろう。結局。

ぼんやりしてたもんだ。

いや、気づいていても
変われなかったのだ。というのが実際のところだろう。
コミットメントとは
一体なんなのか、
コミットメントするとは
何をどうすることなのか、
どう
コミットメントしていいのか、
皆目検討もつかなかったのだ。

中学生になって突然
算数が因数分解になったとき、
眼の前に書かれている数字の意味が
急に理解できなくなり、
ついていけなくなった
子どものように。

そうして今、
社会化、社会化、と
熱病のうわごとのように
うなされている。


これが、
デタッチメントの時代を過ぎた人間の宿命なのだろうか。


だがしかし

デタッチメント慣性の法則は、
かんたんには
破ることはできない。

デタッチメントの放物線は
成層圏を抜けたあと、
惑星をめぐる
永久軌道に乗る。

そうして
宇宙の塵となるまで

コミットメントという遠心力に惹かれながら、

デタッチメントという重力から

逃れることができずに

廻転を

つづけるのだろう。

2006年12月26日

東京を離れた二人の人の話。

ひとりは、毎週月曜日になると
関越トンネルを抜けて、東京にもどってくる人。

「向こうは、ふつうに雪なわけじゃん。
トンネルを越えて、
関東平野に出ると、なにもないわけよ。」

話をききながら、
太郎と次郎を寝かして雪降り積む
屋根の下の暮らしと、
モラルハザードシティ東京との
居心地のギャップについて
想像をめぐらす。

彼は、
やがてもどってくることも止める予定とのこと。

「もう、システムが腐ってるよね。
ひとりひとりは悪くなくてもさ。」

その人の言葉。


もう一人は、聞いた話。
私はお会いしたこともない人。

イヌイットと結婚した才女の話。

北極にほど近い
グリーンランドの果ての地で、

アザラシを獲っちゃうような頼もしいイヌイットの旦那様と

ひと冬だったか、2~3年だったか、
ふたりきりで過ごしたこともある、のだとか。

「日本に帰ってくると、
もう早く向こうに帰りたくて帰りたくて
仕方がないんだ、

って言ってたよ。彼女。」

と皆が話すのをぼんやりと聞く。

看板とコンクリートと人間関係に
万力のように締め付けられて

脳に鳥肌をたてている
彼女の姿を思い浮かべる。

酋長の娘のような日に焼けたその顔を。

そして遥かなイグルーの姿を。


・・・


東京に、
いまも魅力はあるのだろうか。

いや
それ以前に、

存在意義は。