そんなわけで、
そんなに長く飛行機にのるなら
さぞ退屈だろうと、
生まれて初めて買ったわけです。
iPodの80GBで、色は白にしました。
持っていたCDを
だいたい入れて
20GBを超えたころになると、
もうすこし
iPodで遊びたくなる時期に。
単なるイヤホン型では、
iPodの最大ボリュームでも物足りなくて、
やっぱりカナル型だな・・・
とか、
MDにしてた分を
もういちど一からTSUTAYAで借りなおすか・・・。
でもそのまえに
iPodソックスでも買ってみようかな・・・。
なんて思ったり。
で、
ネットを調べた。
たいへんためになった。
ためになった【その1】 : iPodで読書する。
これにはまいった。
これはすごい。
青空文庫というサイトも教えてもらった。
これは、著作権が消滅した(明治の文豪などの)文学作品のテキストを
無償で提供しているページ。
ためしてみたが、結論、
青空文庫のテキストを、
青空文庫用に最適化されたazur(アジュール)という無償ソフトで読むのがいい。
ためしに
芥川龍之介の「運」という掌編を
電車で読んでみた。
ぐっときた。
ためになった【その2】 : Podcastする。
「ポッドキャスト」ね。ハイハイ、耳にタコですよ。
なんかちまちました媒体でしょ。
先入観が、ぽーんと消え失せました。
こんなPodcastが気に入った。
Cinema Playground's Movie Trailer Park:アメリカ映画の予告編(英語版)を配信するビデオキャスト。
海岸ビデオPodcast:沖縄の海岸を歩いてカメラで撮影した動画のビデオPodcast。とのこと。
OTHER PLACES:世界の街の映像をちょっと良さげにまとめてみたものです。まぁ、なんちゃって『世界の車窓から』としておきましょう。とのこと。Podcastなのに、ダウンロードした状態ではiPodで再生できなかった。iTunesでiPod用に変換する作業が必要みたい。
eChat Vancouver:英会話番組。急に英会話なんかにちょっかい出したくなるから不思議だ・・・。例えるなら、海外でやたらなんか英語がうまい日本人と知り合いになってそいつから直接英語の言い回しをおしえてもらってるかのような。
NW English News - NHK World Radio Japan:NHKの英語ニュース。でもなんでまた、急に英会話なんか・・・(後略)
「ほぼ日刊イトイ新聞」を読んでいくうち、
いかにこれが昔の記事か
いかに自分のiPodデビューが晩熟だったか身につまされました。
(つまされることもないけど。)
iPodであそぼう。
このおもちゃは、なんだかスゴイや。
うん、たしかに。
そのとおりやわ。
・・・
日本で電車のなかを見渡しても
iPod普及率はまだそんなでもないのかなー
ってくらいだが、
LAでは、ベッドサイドボードの
普通ならアラーム時計ラジオが置かれてるところに
iHome(iPodドック付きクロックラジオ)が
常備されていた。
持ってて当たり前ってことか。
ホテルのiPodをお貸しします、ってサービスも
してるみたいなんだけど
その告知カードのタイトルは、「Forget your iPod?」。
いったいどれほどの普及率なんだ。
(まだつづき)
ロバート・フランクや、
ヴェンダースに見せてもらったアメリカは
「かっこいい荒涼と虚無と哀愁」なのかと思ってた。
と書いたが、
それってけっきょく
日本なら、
涸れた町並みも、赤瀬川原平の視線が救ってくれる。
ってことと、
同じことを指しているのでは?
つまり
何が言いたいかというと、
素敵でない日本のなかに、素敵を見出す赤瀬川原平と
素敵でないアメリカのなかに、素敵を見出すロバート・フランク
という
等比の関係が成り立つのでは?
つまり、
ヴェンダースの写真集を見て、アメリカへの憧れをいだく人がいるように
赤瀬川原平の『新 正体不明』を見て、日本への憧れをいだく人がいるだろう
ってこと。
どちらの場合も
その人は、実態を見て失望するかもしれないが、それは作家のせいではない。
つまり
ある種の写真表現というものには
醜のなかに美をすくいとる赤瀬川原平のまなざしのような
汚いけど綺麗。という思想がこめられている
といえるのだろうか。
すると、
ロバート・フランクは、赤瀬川原平である。
というテーゼが成り立つといえるだろうか。
また
ヴィム・ヴェンダースは、赤瀬川原平である。
はたまた、
ウィリアム・エルグストンは、赤瀬川原平である。
ウォルフガング・ティルマンスは、赤瀬川原平である。
川内倫子は、赤瀬川原平である。
佐内正史は、赤瀬川原平である。
など、とめどもなく式が涌いてくるといえるだろうか。
汚いけど綺麗。というまなざし という必要条件をもつ限り、
この公式は敷衍できる。
つまり
それらすべてを包含して
すべての写真表現は、赤瀬川原平である。
といえるだろうか。
そうなると、
なかんずく
たとえば、『グレート・ギャッツビー』のフィッツジェラルドはどうか。
『若き芸術家の肖像』のジョイスはどうか。
汚いけど綺麗。というまなざしをもつといえないだろうか。
いえると仮定する。
∴(ゆえに)
フィッツジェラルドは、赤瀬川原平である。
ジェームス・ジョイスは、赤瀬川原平である。
という式が導きだされるといえるだろうか。
すると
これはもはや
写真だけの範疇におさまらない
文学や映画など、多くの創作活動に対して
赤瀬川原平方程式が敷衍できることになってしまうが
あなたはそれでもよいだろうか。
∵(なぜならば)
(つづき)
「ほんとうの荒涼と虚無と哀愁」って書いたが、
これはいったい何のことなのだろうか。
どういうことをさしているんだろう。
日本の地方都市で
ビジネスホテルの裏窓から外を見下ろしたとき、
涸れた日常の眺め
といったものを感じることがある。
あきらめ、や、おざなり、といった人間たちの気持ちを
反映しているかのような町並み。
「ほんとうの荒涼と虚無と哀愁」というのは
こういうイメージをさしているのか。
いや、
それよりももうすこし、冷酷で、根本的で
鋭利で、救いがない匂いだった。
「あいつは変われないよ。残念だけど。」
そんなふうに突き放されたような、
あきらめと、孤独のような匂い。
ディスコミュニケーションの匂い。
そうかもしれない。
だから少し、息が詰まる感じ。
情で解決されないから、まじめに競争しなくちゃいけない感じ。
日本なら、
涸れた町並みも、赤瀬川原平の視線が救ってくれる。
仕事ができなくても、情状酌量が救ってくれる。
それがない感じ。
すこし息が詰まる匂い。
緑地のない都市のように。
そして退屈の匂い。
すべて満たされているが、何の拠り所もない。
飽和してグラスのふちから溢れつづけるような
何の変哲もない日々。
スチャダラパー的な、永遠につづく日常。
そんな、
日本の専売特許かと思ってた退屈の匂いを
かの地で嗅ぎ取ったような気がする。
それらすべての匂いがまざって
「ほんとうの荒涼と虚無と哀愁」の匂いになった。
・・・
ふうん。
おいおい、
そんなことに
いまさら気づいたなんて、どうかしてるんじゃないか。
アメリカ映画を見てごらんよ。ぜんぶその匂いでできてるじゃないか。
眼がすわったクルマたち、そして、斜光の町。シルエットのパームツリー。
それがLAの印象だった。
北米仕様にデザインを一部変更、なんてフレーズは聞いたことがあったが、
たしかに、走ったり止まったりしているクルマたちの顔つきがどことなく、違う。
あえてどこがと云えば、目つきがすわっている。
薄い眼の暴力団風の男、といった人相描き。
ときどき、鼻が異常にでかい人もいる。
(そういう人は、顔自体がでかい。)
犬種が日本犬とは違う、という感じだろうか。
本物のイヌは、日本と何ら変わらず可愛かったけれど。
ハイウェイでは犬たちが、左側の対向レーンを
わっしゃわっしゃと大勢で駆けぬけていく。
ただ3、4日もすると
そんな顔のちがいも気にならなくなった。
むしろ、どこに違和感を覚えていたのか
思い出せなくなったほどだった。
そして斜光だ。
午前中は黄色を帯びた
午後はやや朱色を帯びた
ひどい斜光。
空はデフォルトで快晴。
それなのに斜光のせいで
ほとんど一日じゅう、若干の黄昏気分をどこかに漂わせている。
斜光を浴びる住宅地。
映画で見たような
道路から地つづきの芝生の庭、そして平屋の家。
家と家、家と道をへだてる塀も柵もない。
今日も、明日も、一ヶ月後も、
考えるまでもなく、晴。
という世界は
「今日の天気」が毎日変わる世界とは
暮らす人間の心もずいぶん変わってくるだろう。
そんなことを思った。
しかし
日本と違っていたのはそこまでだった。
無機質で、無個性な
巨大ショッピングモール(ショッピングビル)、
街路樹に
豆電球がちりばめられた
クリーンなショッピングストリート、
ロードサイドのメガストア、
(アメリカ人も、テレビで見たインド人のように
「買い物しているときがいちばん幸せ」とか思うのだろうか)
おびただしい広告看板からの無節操なメッセージ、
時々目にする
マンションやなんかの意匠が
超簡素化されたヨーロッパ風デコレーション、日本にもある手合いの
なんちゃって○○風デザイン、
(建築学的には、こういうのをキッチュというのだろう
南伸坊的にいえば、ズサン)
人工的な清潔感と
利己的な競争原理、
それらすべてのことを言い当てて、
「つまりは、合理的。」と、だれかが言ってた。
日本の街並みの
無節操さは、
アジア由来だと、
なんとなく勝手に思い込んでいたけど、
そうか、そうだよな。アメリカ直輸入だったんだ。
町では
日本風コンビニ「Famima!」を、いくつも見かけた。
ちょっとしたブームみたいだ。
MOCAのアンテナショップでは、
当然というように、奈良サンTシャツも人形も売っていた。
本屋では、少年ジャンプ英語版が平積みされ
3Dソフトで美少女をつくるパソコン誌が面差しされていた。
夜、ホテルの裏窓からみた
何の変哲もない通り。
空き家になった何かのストアだろうか、
異様に四角いコンクリートの平屋。
夢、とか、憧れ、とかの言葉が似合う眺めではなかった。
ロバート・フランクや、
ヴェンダースに見せてもらったアメリカは
「かっこいい荒涼と虚無と哀愁」なのかと思ってた。
ちがってた。
「ほんとうの荒涼と虚無と哀愁」だった。
この国で
英語を操って仕事をしているフリーランスの日本人たちの
充実感と孤独感と
日々を想った。
9日めに、はじめて海を見た。
海では、タバコを吸ってもビールを飲んでもいけない。
犬の散歩をしてもいけない。
そのため、人もあまりいない。
茫漠とした砂丘のような
黄色い砂のエリアのむこうに、西海岸の波打ち際があった。
「風邪なおる」という語は、早春の季語にすればいいとおもう。
或いは、「病み上がる」とか。
「春来たり」というのと、同じような語感を感じるのは何故だろう。
確か、去年もこんな感じだった、
なんて思ってしまいたくなるような。
回愎して体が楽になりつつある心地と
五感のどこかが春の気配を察知し、そわそわと戸惑う感じが、
妙に似ており、そればかりかまた
快復期にあるアタマのぼんやり感と、早すぎる春に反応したアタマの酩酊感が
これまた妙にシンクロするところから、
確か、去年もこんな感じだった、
なんてデジャヴを感じてしまうくらい
病み上がりと春の気配には親和性がある。
春 宵 や 風 邪 な お り タ ク シ ー の 提 灯 に じ む
春 宵 や i P o d し ま の 唄 え ら ぶ
春 宵 や 地 下 鉄 の 行 く 顔 す べ て 愛 ら し い 哉