『世界の車窓から』は、
知らなかった素敵な音楽を
たまに教えてくれる。
ハードディスクレコーダーで
まとめて見るようになってからは、
そんな曲が2曲ある。
どちらも、近いうちアルバムを買ってみようと思っている。
たぶんどちらも、
まず私が知ることはなかった音楽だ。
Rosalのほうは、最近だったから
映像もおぼえている。
ブエノスアイレスを夕暮れのなか発車する
列車のなか。
窓からは、宵の風。
薄い群青のベールをかけたような
誰そ彼どきの
こどもたちの顔。
遠くに残照。
遠くの団地の灯り。
子供のころに見た夢の中のような
淡くあいまいな光。
幼な児のちぢれた髪が
風になびく。
子供の頃に初めておぼえた
不安や
哀愁や
期待や
ほおにあたる風の感触や
「列車は夜に向かって走っていきます。」
と石丸謙二郎。
・・・
…っと、こんなページがあって、びっくり。
ゆえあって、
安部譲二さんのブログを読み
そのおもしろさにやられてしまったので、
ここで紹介する。
毎回毎回、
うならされるのだが、
2つほど、引用させていただく。
「年寄りは三回続けてショックを受けると、老人性の欝病の発作で、堪らず自殺してしまうのを俺は多年の経験でよく知っている。
遺族が、「自殺なんてそんなこと、旅行に行く飛行機の予約も、宿の手配も済ましておりましたのに……」なんて言うケースだ。
旅行の約束を反故にして、死んでしまうような男ではないと、遺族は涙ながらに語るのだが、俺はそんな衝動が痛いほど分かる。
まず若くて綺麗な娘に、最初から爺い扱いされてかなり落ち込み、忌々しい想いをさせられて、次に打ち合わせか会議で、自分が熱心に喋ったことがろくに聴いてもらえず、そして最後に僅か四合呑んだだけなのに、蹴躓いて不様に転ぶと、俺たち爺いは生きていたくなくなる。
こんな想いをするのは、もう嫌だと思うんだ。」
(第43回 『生しらすと静ごころ』より引用)
「見掛け倒しなのは、歳を取れば取るほど哀しい。
誰も気が付いていなくても、俺自身がはっきり、どうしようもなく気が付いている。
若い頃は切ったり撃ったりやっていたのに、今ではテレビに映る残虐な場面 を見るのが嫌なのだ。
サスペンスやホラー映画もヒッチコックまでで、オーメンからは見ないことにしている。
注射だってされるのも嫌だし、他人様がされているところを見るのも嫌だ。
綺麗な少女が白血病で死んだりする映画なんか、たとえ滝川クリステルちゃんでも見るものか。
昔のイメージが残っているから、皆、俺を大酒呑みだと決めているが、房錦関や吉葉山関と呑み比べをしたのなんか、遠い遥か昔のことで、今は四合呑めば転んで起き上がれない。
強面で豪放磊落を装ってはいても、それも実は見掛け倒しで今の俺は気が小さくて、細かいことが矢鱈、気になって仕方がない。
だからこの頃、俺は思いきった悪口が言えなくなったし書けなくなった。
「外れるのを怖れて買い目を増やすな」なんて書くけど、馬券の買い目が絞り切れない。
もう喧嘩も戦争も、恋も金儲けもなにも出来ない爺いだと、上戸彩ちゃんと滝川クリステルちゃんだけには知られたくないんだ。
読者と世間様にはうまく誤魔化して、本当の姿は悟らせない。
そんな技術があるから、俺は筆一本でまだ喰っているんだ。 」
(第45回 『見掛け倒し』 より引用)
・・・
ご同輩、人生は深いよ。
那覇空港を発った飛行機のなかで
『文藝春秋』三月号の
第136回芥川賞受賞作、『ひとり日和』(青山七恵著)を読んだ。
そして各審査員の選評も読んだ。
読後の気持ちは、なんか鬱、だった。
石原慎太郎の選評ではないが、
今の人間は、どうして
こんなにも生き弱く、スポイルされてしまっているのだろう。
もちろん、自分も含めて、だ。
以前新聞で読んだコメントでは、受賞者青山さんは
(非常にうろおぼえだが)
日常のなかのほんの些細なことに敏感でありたい
たとえばコピー機が立てる音とそのときの気持ちの揺れ・・・
(非常にうるおぼえすぎる!)
みたいなことを
言っていて、
ああ、その感覚は共感しそうだなぁ
と、そのときは
ひどく親近感をいだいた。
その
「些細」をすくい取る感覚が、この作品で
何に向かって総動員されたかといえば、
それは
あきらめと無力感で満たされたモラトリアム女子
(というかそれがフツーな典型的現代人)
を描く為なのだった。
「コドクな女子の生きざま」というコンセプトでくくると、
私のなかでは
この作品の主人公知寿ちゃんは
『十六歳のマリンブルー』のえみちゃんの数年後であり、
『センセイの鞄』の月子さんの十数年前であるようにも思えた。
(読書の幅が狭くてスミマセン。)
(女子って、コドクなんだ。
あるいは
コドクな女子は、コドクなんだ。)
選評を読んでいくと
受賞のポイントは
1)そんな
スポイルされた
生き弱く
コミュニケーションヨワイ
典型的現代の世代というテーマと、
2)その
「些細」を描く筆致の巧さと、
3)そして
駅のホームが見える部屋
という舞台設定をつくってしまえる
アイデア力、
の
あたりのようです。
(慎太郎と龍が推してたのが印象的だった。)
同じ号のなかで
慎太郎、龍、綿矢りさの鼎談があり
そこで
村上龍が
小説とは悪夢のようなもの
と言っていた。
ならば
この作品こそ
現代の世代の白日の悪夢・・・。
と、ここまで書いて
みんなそんなにネガには読まないんだろうな、
とも思ったりして。
こんなに鬱にうけとるのは私くらいかな、
とも思ったりして。
選評で、山田詠美は
疲れた中年男性が好みそうな・・
といったニュアンスのことを言っていた。
私の場合は、喜んでは読めなかったです。
(・・・ん、それとも
山田詠美が言っていたのは
こういう私のような過剰反応のことなのかな・・・?)
さいごに
もういちど、養老センセの文章を引用。
「むずかしいでしょ、生きるって。こんな簡単なことは、ほかにないからです。動物ははじめから『生きて』います。それを籠に入れて、まったく動けないようにして、餌と水が目の前を流れてやるようにしてやる。それがブロイラーです。だれかの生活がそれに近づいたとき、見ている人から『生きてない』って表現が出るんでしょうね。(後略)」
(養老孟司 『運のつき』 マガジンハウス より引用)