福居伸宏 展 "ジャクスタポジション"
2008年03月08日 ~ 2008年03月29日 小山登美夫ギャラリー
■地明かりというウイルス、あるいは外灯
夜中に大川の土手を走っていると、
河沿いに思い思いに建つ家々の
光を発する窓からは、
露らわになった部屋の中の様子が
手に取るようにわかって、
蛍光灯とブラウン管に照らされる食卓、
白熱灯に照らされるソファ、
祖父、あるいは孫
あるいは男の足。
川の遥か上流の長い鉄橋を、
夜に光を放つ芋虫のような電車が滑るように流れていく。
ヒッチコックの『裏窓』や
大友克洋の『童夢』を知らなくても、
高速道路から見つけたビルの
こんな時間でもまだそこだけ明かりがついている階の
蛍光灯に照らされた冷たいデスクが
生々しく想像力を掻き立てるときの気分は知っているはずだ。
あるいは
磐越西線の夜の鈍行列車、
この土地に縁もゆかりもなく、車窓にはただ通り過ぎるだけの土地。
墨を流したような風景のなかに
時折、農家の平屋の窓から、夕餉の卓袱台を囲む家族の姿を
垣間見たときの気分なら
知っているはずだ。
福居伸宏 展については、
実際に見る前から気になって
前にもこの日記で予告篇的なことを書いた。
そのときは
見る前の当て推量で「存在論的な写真」なんて書いたのだが、
実際にみて、いい意味で裏切られた。
よく
ヨーロッパの村の家々は、
その土地で採れる材料だけを使って建てられるから、
屋根の色、壁の材質、
どの部分にも、全体に町並みの統一感がある、
なんて話をきく。
物流の発展した現代では
そのような
環境の制約による自然な統一感
というのは、なかなか起こりえないことだろう。
ましてや、無節操な現代日本では
まったく考えられない話なのだが、
福居さんの
『Multiplies』というシリーズを見ながら、
現代日本の街並みにも、
「素材の統一感」
といえるものがあるのではないかと
知らされた気がした。
つまり
都市部の夜
という名のフィルターが
冷たくイビツな建物たちに
ある何らかの統一感を与えている。
それは
マンションや公営住宅の外壁素材の統一感というよりも、
壁々が虚ろに反射する
光の統一感だ。
その発光源は、
外灯であり、
信号機であり、屋内の蛍光灯であり、高層ビルの赤色灯であり。
ようするに
…環境の制約による自然な統一感(!)。
新作といわれる
『Juxaposition』のシリーズのほうに足を移す。
そこにあったのは、
私が勝手に期待していた「ものの存在感」などという
形而上的な感動なんかじゃなく、
「かたち」や「色」への感動だった。
なぜだろう。
よく
「没個性」「無機質」といわれる都市。
現代日本の都市。
そのなかに、
こんなに美的な
「かたち」や「色」がある。
マンションの部屋からもれる灯りに
これだけ豊かな色のバリエーションがある。
外壁に淡く反射する信号機の青、
ガラスに映り込む高層ビルの赤。
冷たい公園の階段の
タイルのパターンに、
手すりの鉄柵のパターンに、
これだけ興味深いカタチがある。
(『Multiplies』にあった金村修的電線が
『Juxaposition』では姿を消している。)
マンションの白い壁タイルに
さまざまな地明かりが重なって
複雑な光と影の階調をなしている。
ごく当たり前の景色に見えて、
それでいて
杉本博司の実験作、
白の階調シリーズ
を彷彿とさせるような
美的な景色。
私はまるで油彩のタブローの筆跡を確かめるがごとく、
公営住宅の光と影を
1階、2階、3階…と眼で追っていく。
コトバでは
陳腐になってしまうのだが、
既に日常で見ているはずの風景に
新しく美的価値を付加する。
そんな作品なのだと思った。
(それが、「汚いけど綺麗」派。)
特徴的なのは、
それでいて
妙な過剰さのないところだ。
荒木経惟でも
金村修でも
アンドレアス・グルスキーでも
住宅都市整理公団でも、
かならずどこかに過剰さがある。
(過剰なのは「自己」?「作家性」? なんだろう?)
それが
福居伸宏には、なぜだかないのだ。
しいて云えば、
初期モンドリアンのような。
そんな
低体温、
無彩色の。
「パトスのない世代が見る」風景とでも云えば
いくらかでも
この気持ちに近いだろうか。
ギャラリーの
展示作品リストに
売却済シールが唯一2枚ついてた作品、
『Juxaposition』No.2は、
まるで最盛期のモンドリアンが
しばしば画面の端に描いたような
小さな色の矩形が、
夜のビルに
散りばめられたみたい…。
夜中に大川の土手を走っていると、
真っ暗な川面に、
くたびれた小型船が係留されているのが
辛うじてシルエットでわかる。
そんなとき思うのだ。
真っ暗なあの船のなかで
誰にも気付かれずにずーっと置かれたら
どんな気分だろうと。
巨大な鉄橋の下、
真っ暗な河川敷。
あるいは高速道路から見える
まったく人の気配のない真っ暗な精錬工場、
あるいは
線路と高速道路と用水路に塞がれた
都会の死角のような
灯りもなく崩れそうな廃屋。
そんなところに
自分の身を置く
想像に
ほんの数秒、耽ってみる。
「日常の退屈さをいかにしのぐかが、現代の人間の根本的な問題である。」
と、島田裕巳が言う。
昔、ひょんなことで
GA645というカメラを与えられ、
渋谷から大久保あたりまで、ふらふら撮った。
神宮前の交差点は
GAPなんか無くって、ただのコインパーキングだった。
冥い夜空の下
寂寥とした外灯が、
アスファルトに反射して
ちょうどこんな感じだったのを思い出した。
工藤キキさんのお取りまきたちの
冷たい視線に
追われるように清澄の路地へ出た。
日の落ちた
春宵は、
おそろしいほど
福居さんの写真の通りに見えた。
…これこそ、
写真家の狙い通り。
押し迫った暮近い日である。風が坂道の砂を吹き払って凍て乾いた土へ下駄の歯が無慈悲に突き当てる。その音が髪の毛の根元に一本ずつ響くといったような寒い晩になった。坂の上の交叉点からの電車の軋る音が前の八幡宮の境内の木立のざわめく音と、風の工合で混りながら耳元へ掴んで投げつけられるようにも、また、遠くで盲人が呟いているようにも聞えたりした。もし坂道へ出て眺めたら、たぶん下町の灯は冬の海のいさり火のように明滅しているだろうとくめ子は思った。
客一人帰ったあとの座敷の中は、シャンデリアを包んで煮詰った物の匂いと煙草の煙りとが濛々としている。小女と出前持の男は、鍋火鉢の残り火を石の炉に集めて、焙っている。くめ子は何となく心に浸み込むものがあるような晩なのを嫌に思い、努めて気が軽くなるようにファッション雑誌や映画会社の宣伝雑誌の頁を繰っていた。
(『家霊』岡本かの子 /ちくま文庫「名短篇、さらにあり」所収)
春の闇よりつぎつぎに濤頭(なみがしら) 清崎敏郎
春鹿の眉あるごとく人を見し 原石鼎
春眠の夢路を借りて母に会ふ 金泰定
願はくはわれ春風に身をなして憂ある人の門をとはばや 佐佐木信綱
下萌の土手をななめに下りけり 吉田佳代
峰つづき都に遠き山々の限も見えて残る雪かな 後水尾院
半面のかがやき思ひわがねむるこの半球は春の闇なり 五島美代子
(いずれも読売新聞「四季」欄より
上から、2008.3.9、13、4、2、7、12、2.22)
池澤夏樹のメールマガジンに勧められて、
『フランスの景観を読む』(和田幸信著 鹿島出版会)
という本を読んだのは、
昨年(2007年)の末のことだ。
ちょうど
一昨年(2006年)の末ごろには、
前にも書いたように
『美しい都市・醜い都市』(五十嵐太郎著 中公新書ラクレ)
という本を読んで
「美観」という固定観念を
打破されていたところだった。
うって変わって
『フランスの景観を読む』のほうは、
フランスの行政が
いわゆる「美観」のために
なみなみならぬ努力をしていることが描かれており、
いちどは打破された固定観念が
再びむくむくとアタマをもたげはじめた。
「やっぱり美観だよね!」と。
フランスでは
国や都市がさまざまな独自の法律で
景観を守っているそうで、
(正しくは本書を読んでいただきたいが)
例えば、
・都市のなかに広告を出していい地域と
広告が存在してはいけない地域がある。
・店名と業種以外を
サインとして出してはいけない。
・店のサインの出し方にルールがある。
板状の看板はNG。
立体文字を壁に直接はりつけるか、庇のうえに並べる。
・ビルにも板状の看板をつけてはいけない。
社名などの文字をつける場合は、
屋上に立体の文字だけをつけることで
「抜け」が見通せるようにする。
・1階、2階、3階のラインをそろえる。
通りのファサードに統一感をもたせる。
・広告を掲出していいのは、
バス停などの広告スペースと
工事現場の仮塀のみ(!)。
・広告の種類にも細かい分類があり、
いわゆる「足のついた看板」を、
郊外や農村地帯の空き地に立てることに
厳しい規制がある。
・・・などなど。
振り返って日本は・・・
新幹線に乗れば
田んぼの中に
巨大看板が立ち、
首都高を走れば
ビルの屋上に
ハコ型の巨大広告とビルボードが並び、
街を歩けば
おびただしいソデ看板に
目をうばわれ、
走るバスにまで
派手な全面広告がプリントされている。
もちろん、
クールジャパンの象徴としてのアキハバラや、
五十嵐太郎がいう近代遺産としての
「日本橋の上の首都高」が、
日本のオリジナリティだという意見もわかるが、
「無節操」だけが
現代日本のオリジナリティなのか
と思うと
ちょっと悲しくなる。
「金さえ払えば、そのスペースをどう使おうと広告主の勝手」
という風潮に
以前だれかが疑問を呈していたが、
モラルだけじゃダメなんデス!
本気でやるなら、立法デス!
と、フランスの例が雄弁に語っている。
・・・
・・・
「無節操な日本の風景」
という言い方に対して、
「いや、現実というものがそもそも無節操なんですよ。」
と言わんばかりの
写真展を見つけた。
小山登美夫ギャラリーで
3月8日(あさって)から開かれる
福居伸宏というアーチストの写真展だ。
「その現実の無節操さを凝視してごらんなさい・・・」「そうしたら、『存在』というものが気になってくるから・・・」
と、
問わず語りする写真たち。
赤瀬川原平を頂点とする「汚いけど綺麗」派の
期待のニューフェース。
(すごい勝手な分類。)
ちなみに
赤瀬川原平を頂点とする
「汚いけど綺麗」派の中の、
「タイポロジー」分派の筆頭がベッヒャー夫妻なら、
この福居伸宏さんは
「存在論」分派の
期待のニューフェース。(しつこい。)
・・・
リンクに誘われて、
この福居伸宏さんのホームページにまで足を伸ばした。
写真はもちろんだが、
それ以上に興味をひかれたことがいくつかある。
ひとつは、
「ステートメント」というものだ。
たとえば、盲目の人が光を取り戻したとします。網膜に差し込む十分な光、視神経から脳髄に伝達される正常なパルス。しかし、その人は、目に届く光を感知できたとしても、しばらくは「もの」を見ることができないでしょう。視覚経験のデータベースに「もの」が登録されていないからです。「見たことのないもの」は「見えない」ということです。「もの」が見えなければ、空間=外界世界が知覚されることもありません。では、「もの」が見える人はどうでしょうか。
まるで、
河出書房新社「世界の美術」(座右宝刊行会編 絶版)の
モネの巻の解説のような。。。
アーチストには、
自らの考えを言語化する能力も
必要なことなのだろう。
村上隆を持ち出すまでもなく。
ふたつめは、
この人のブログだ。
ひとりの新進写真家が日々どんなことを考えているのかが、かなり克明に描かれているように見えた。かと思えば、こんなハナシのトラックバックが引用されてたりもする、妙な生々しさ。
これを見て「あれ。。。。???」って感じた方いるでしょう。日本の○○○○カメラマンに似ていませんか?そう、写真集も売れていますね。別に非難している訳ではないのです。。ただ、彼はNHKの「トップランナー」って番組で、「自分で試行錯誤してやっと納得いくものになりました。」って言っていましたが、技法なのか、作品なのか。オリボ・バービエリという名前が番組には出てきませんでした。。。。どう思いますか?http://fujisan51.jugem.jp/?eid=156
みっつめは、
「リンク」だ。
いわゆる「アーチストの卵」という存在が
リンクで横につながったり、
WEBで作品を日常的に発表したりする様子が、
「アトリエ八潮」や「IIIIIIIIIII」というページから
見えてくる。
と、
これらみっつとも、
日ごろなかなか目を向ける機会がなかった
「ネットな現代を生きる新進アーチスト」というものの
生態が
生々しく想像されるようで、
見れども
興味はつきなかった。
見終わったあとも、
なんだか
他人の生々しい体温に触れたようで
なかなか
余韻は醒めなかった。
ネットは、
いつも不思議な体温の伝え方をする。