2008年11月23日

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モーリス・ルイス 「秘密の色層」

川村記念美術館
2008年09月13日 ~ 11月30日


■美術が体育でもあった頃


川村記念美術館はあなどれない。

自然に囲まれしばしば気になる現代美術展をやる美術館として、
前から気にはなっていながら今日まで行く機会がなかった。

それが、中高時代に美術の教科書のなかで出会った
モーリス・ルイスの展覧会をやっていると知って、
はじめて佐倉の地を訪れた。

駅からの無料送迎バスの車窓には、
都心から1時間とは思えない
黄金色の田園風景が秋晴れの日射しに輝いている。

バスに揺られること30分、
敷地は思っていたよりもずっと広大で、
黄に色づいた雑木林に囲まれるように噴水のある広い池、そして美術館。
無垢でありながら洗練されている。

・・・

モーリス・ルイスの展示点数は16点ときいていたので、
小規模な展覧会なのかなと思っていたのだが、
結果的には見応え充分であった。

最初の展示室は、『ヴェール』のシリーズ。

その名の通り、舞台のビロードのどん帳のようにも見えるし
天蓋付きベッドのカーテンのようにも見える。
フットライトで下から放射された光の帯のようにも見える。

巨大な6つのタブローに囲まれて、
中央のソファでぼんやり眺めていると
展示室内のほの暗さも手伝って、
夢か映画かなにかの世界のなかで、夢に落ちて行くような気分になる。

私のなかのモーリス・ルイスのイメージは、
もっと鮮やかな色合いだった。
水彩のように淡い絵の具で描かれた
カラフルな何本もの縦のストライプ。

この記憶は、
中学か高校の美術の教科書で見た作品でありかつ、
この数年以内に何かの展覧会で1枚だけ目にしたタブロー。

それなのに、この『ヴェール』のシリーズは総じて、
濁った中間色というか、
絵の具を混ぜすぎてできたような暗い色で

私が期待するモーリス・ルイスとは
すこし勝手が違っていた。

しかし、見ているうちに、
まわりを霧につつまれていくかのように
作品に、つつまれていく。

ふたつめのシリーズは、『アンファールド』。

カンヴァスの中央は、ほぼすべて余白。
両端に、飾りのように、鮮やかな絵具を流したストライプの流れ。

・・・

『ヴェール』は、1954年、そして1958-59年に制作。
『アンファールド』は、1960-61年に制作。

あの頃、美術は、体育だった。

カラダを動かして、汗をかき、タブローに体当たりしながら、
見るものにフィジカルに訴える作品たち。

飛び出す絵本さながら、本当に見るものの目の前に飛び出してみせた、フランク・ステラ。

バーチャルなビデオアート時代から見れば、もはや郷愁をさそうような
手づくりのアナログ感。

青い塗料を塗った人間をカンバスにぶつけて描いた、イブ・クライン。

タブローの平面という限界をなんとか超えてやろうともがいた

ジャスパー・ジョーンズ、

ジム・ダイン、

ロバート・ラウシェンバーグ、

ジェームス・ローゼンクイスト。

そして、美術はカラダの運動だと示した第一人者、

ジャクソン・ポロック。

だれの、どの作品も、葛藤したように、塗りたくられ、混ぜられ、濁った色合いに、

現代美術の思春期を見るようだ。

カラダだけが急激に成長していくことへの、戸惑いのような作品たち。

・・・

モーリス・ルイスも同じだ。

そのタブローの前で、

“環境”をつくりだしてやろうと

カラダを動かす

作者の姿が浮かんで見えてくる。

タブローを通して、

うっすらと、体温が放出されている。

・・・

川村記念美術館はあなどれない。

企画展のあとそのまま常設展を見た。

私が中学生の頃から気にしていた

異端の現代美術画家、ヴォルスの作品が

いくつも展示されているではないか。

ただ、

現代美術の思春期がやがておわっていったように

私のなかの思春期もいつのまにかうっすらと消えてしまっていた。

ヴォルスを見て、

あらためてそんなことに気づかされた。

2008年11月08日


■皇帝ペンギンはアンドロイドの夢を見るか


(以下、『短歌の友人』 穂村弘著  河出書房新社刊 より引用)


・・・


電話口でおっ、て言って前みたいにおっ、て言って言って言ってよ 東直子


溜め息とぎりぎり似てるその「ッ」が聞きたくてTの肩をゆるく噛む もりまさこ


「おはよう」に応えて「おう」と言うようになった生徒を「おう君」と呼ぶ 千葉聡


ひも状のものが剥けたりするでせうバナナのあれも食べてゐる祖母 廣西昌也


173cm51kgの男憎めば星の匂いよ 山咲キョウコ


一千九百八十四年十二月二十四日のよゐのゆきかな 紀野恵


女子トイレをはみ出している行列のしっぽがかなりせつなくて見る 斉藤斎藤


形容詞過去教へむとルーシーに「さびしかつた」と二度言はせたり 大口玲子


生徒の名あまた呼びたるいちにちを終わりて闇に妻の名を呼ぶ 大松達知


知りたきよ諸国戦国武将らの言葉づかいのそれぞれの癖 大滝和子


逃げてゆく君の背中に雪つぶて 冷たいかけら わたしだからね 田中槐


たくさんのおんなのひとがいるなかで
わたしをみつけてくれてありがとう 今橋愛


「カルピスが薄い」といつも汗拭きつつ父が怒りし山荘の夏 栗木京子


その少女ならきのう発った、とある人は言い
  いやまだ来ていないと、ある人は言う 林あまり


雪だった手と手をあたため合うなんてことむろんなくバスを待ってた 五十嵐きよみ


ふたり見たフランス映画の白髪の老女に今すぐなれたらいいね 五十嵐きよみ


もう君が誰でも、そうさ、僕はもう、犬だからそこいらじゅう舐めるよ 村上きわみ


たすけて枝毛姉さんたすけて西川毛布のタグたすけて夜中になで回す顔 飯田有子


ティーが通じない私はただティーが飲みたいのですティーがワン・ティーが 平山絢子


なんどでもやりなおしなんどもこじれどこからがどれだけなにをどうやって? 今橋愛


ねじをゆるめるすれすれにゆるめるとねじはほとんどねじでなくなる 小林久美子


梨食ひて梨の時間の流れたる何事も無き夕べなりけり 荻原裕幸


この鯛は無病息災に生きてこしにこうしてわれの口に入りたる 沖ななも


覚めてより耳に離れぬ唄のありそがまた実に下らぬ唄にて 西中真二郎


人間のわたしにわからぬ体力にて夜中を過ぎても蝉が鳴きゐる 河野裕子


八丈のクサヤを肴に飲みゐしが臭気になれるころを喰ひ了ふ 島田修三


一回のオシッコに甕一杯の水流す水洗便所オソロシ 奥村晃作


音もなくポストに落ちし文一通あと数時間ここにありなむ 香川ヒサ


ごみとして段ボールあまた置かれをりそのうち一つをごみ箱として 香川ヒサ


角砂糖紅茶に落とせば立方体しばし保ちて突然崩る 香川ヒサ


序破急はなべてに在るも交合の序破急こそは根源ならめ 水原紫苑


遺棄死体数百といひ数千といふいのちをふたつもちしものなし 土岐善麿


逢うたびに抱かれなくてもいいように一緒に暮らしてみたい七月 俵万智


硝子戸に鍵かけてゐるふとむなし月の夜の硝子に鍵かけること 葛原妙子


印度孔雀おごそかに距離をたもちゐる雌雄よひとつとまり木の上 葛原妙子


藍染めの風呂敷にして包みたるものの形に緩くしたがふ 喜多昭夫


木のもとにころがつてゐる空蝉のなかに夕べの水溜まりをり 喜多昭夫


海とパンがモーニングサーヴィスのそのうすみどりの真夏の喫茶店 正岡豊


中国も天国もここからはまだ遠いから船に乗らなくてはね 正岡豊


冬をまく否マフラーをまきつけるきみに黒田三郎詩集を 正岡豊


あの青い電車にもしもぶつかればはね飛ばされたりするんだろうな 永井祐


寄せ返す波のしぐさの優しさにいつ言われてもいいさようなら 俵万智


ひとしきりノルウェーの樹の香りあれベッドに足を垂れて ぼくたち 加藤治郎


夢らしきものの手前の現実をずっと過ごしているわけだけども 脇川飛鳥


うめぼしのたねおかれたるみずいろのベンチがあれば しずかなる夏 村木道彦


したあとの朝日はだるい 自転車に撤去予告の赤紙は揺れ 岡崎裕美子


怒りつつ洗うお茶わんことごとく割れてさびしい ごめんさびしい 東直子


なんでこうつららはおいしいのだろう食べかけ捨てて図書館に入る 小林真実


海の観覧車のまえではだまってたついたりきえたりするからひかり イソカツミ


謝りに行った私を責めるよにダシャンと閉まる団地の扉 小椋庵月


はじめからこわれていたの木製の月の輪ぐまの左のつめは 東直子


ドライブスルーのマイクに向かう一度でもきれいな声が出たことがない 棉くみこ


花しろく膨るる夜のさくらありこの角に昼もさくらありしか 小島ゆかり


・・・


門灯は白くながれて焼香を終えたる指の粉をぬぐえり 吉川宏志


秋陽さす道に棺をはこびだし喪服についた木屑を払う 吉川宏志


性愛のためともす灯と消す灯あり白蛾のはねは窓に触れつつ 吉川宏志


人を抱くときも順序はありながら山雨のごとく抱き終えにけり 吉川宏志


蚊取りの火じーんと闇に浮かびいて無言に待ちぬ子どもの眠り 吉川宏志


「一首ずつをみればそれぞれリアルな感触のある秀歌だが、両者は明らかに同じ(構文)によって支えられている。リアリティと(構文)の両立という吉川特有の世界である。」  
「素直な読者はこうした作品に触れて、まだ世界は豊かだと錯覚して安心したり癒されたりする。実際にはこれははすべて秀歌である。だが、歌の作りに関しては、吉川や小島の作品の方が、実はもりまりこや飯田有子の歌に比べてより人工的という見方は可能だと思う。」  
「以上のようなことは、実際に空気の中に(酸素)が豊かだった時代の歌との比較によって、よりはっきりと感じられる。」


幼児の風邪きづかひて戻り来るきさらぎの夕べいまだ明るし 柴生田稔


「ここには(構文)がないと思う。歌をリアル・モードに切り替えるための特別な工夫はみられない。」  
「一首のリアリティを支えているのは作者の個人技ではなく、豊かな世界の空気感そのものではないだろうか。」  
「それにしても(酸素)とは何なのか。現在の我々の世界が酸欠状態にあるとして、時間の流れと共に失われた(酸素)の正体とは何なのだろう。」

(第3章 (リアル)の構造  酸欠世界  より)


・・・


まちがい電話の声さえ欲しがっているから言いそう「待ってた」って もりまりこ


くだもの屋の台はかすかにかたむけり旅のゆうべの懶きときを 吉川宏志


おさなごの椅子の裏側めしつぶの貼りついており床にしゃがめば 吉川宏志


我が家の犬はいづこにゆきぬらむ今宵も思ひいでて眠れる 島木赤彦


・・・


日本脱出したし 皇帝ペンギンも皇帝ペンギン飼育係りも 塚本邦雄


「両歌に共通しているのは、生命を生身のそれではなく自由に扱えるモノとして捉える言葉のフェティシズムだと思う。我々は「生の一回性」の実感を手放すことで、何度でも再生可能なモノとしての言葉を手に入れたのである。」
「モードの多様性を自然なものとする感覚に反比例して、現実を唯一無二のものと捉えるような体感は衰退してゆく、そこでは現実も想像も、言葉の次元では全てが等価であるという錯覚が生まれ、その結果、モードの乱反射のなかにモチーフが紛れてしまうというようなことが起き易くなる。いわゆる「なんでもあり」の感覚である。」  
「モードの多様化は、自分自身が死すべき存在だという意識の希薄化と表裏一体になっている。」    

(第4章 リアリティの変容  モードの多様化について  より)


・・・


「ヒューマニズム」を無二の理想にかかげつつ五十余年の果てに「むかつく」 小池光


小さめにきざんでおいてくれないか口を大きく開ける気はない 中澤系


腹が減っては絶望できぬぼくのためサバの小骨を抜くベトナム人 斉藤斎藤


3番線快速電車が通過します理解できない人は下がって 中澤系


リモコンが見当たらなくて本体のボタンを押しに寝返りを打つ 斉藤斎藤


暗道のわれの歩みにまつはれる螢ありわれはいかなる河か 前登志雄


夜となりて雨降る山かくらやみに脚を伸ばせり川となるまで 前登志雄


・・・


回転のすしに置きたる文違ふ女にとられしと嘘のよな話 岩田正


タコ来穴子来タコ、タコ来海老来稲荷も来ねこいらずこ来ずショーユも来 小池光


これなにかこれサラダ巻面妖なりサラダ巻パス河童巻来よ 小池光


「この歌では、そのような(回転寿司屋的変容)に対する拒否感がユーモラスに表現されている。だが面妖な「サラダ巻」をパスして昔ながらの「河童巻」を求める心とは、思いのほか真剣で、同時に儚いものであろう。作者にはこの現実世界における「サラダ巻」的な面妖さの加速が実感されているはずだ。」
「寿司屋を回転寿司屋に変容させる力のなかに、人心の荒廃や堕落を読みとることは簡単だが、問題はその裏側にリアルな必然性のようなものが張り付いていることである。少なくとも私には、回転寿司屋の繁栄の理由を自らの心のなかに見出すことができる。」
「現代では悪夢的だということがすなわちリアルなのであり、そのリアルさこそが、対極にあるアニミズム的な世界から生命力を奪っているものの正体だろう。」

(第4章 リアリティの変容  反アニミズム的エネルギーについて  より)


・・・


わかるとこに
かぎおいといて
 ゆめですか

わたしはわたし
あなたのものだ  今橋愛


手でぴゃっぴゃっ
たましいに水かけてやって
「すずしい」とこえ出させてやりたい 今橋愛


徘徊老人を人工衛星に監視しゆくを「進歩」といふ 小池光


あそび子が夢中か否か評価する名門私立幼稚園あり 池田はるみ


・・・


「だが、近年の若い歌人にみられる作品傾向は、そのようにして選び取られたオールドファッションともまた違っている。彼らは言葉のオモチャ遊びはしない。しかし、世界の豊かさを信じているわけでもない。」


牛乳のパックの口を開けたもう死んでもいいというくらい完璧に 中澤系


機関銃と同じ原理の用具にてぱちんと綴じられている書類 松本秀


ああ闇はここにしかないコンビニのペットボトルの棚の隙間に 松本秀


ウォシュレットがぴしりと的を射抜くよう膝をそろえて背筋をのばす 斉藤斎藤


いけないボンカレーチンする前にご飯よそってしまったお釜にもどす 斉藤斎藤


ふとんの上でおかゆをすするあと何度なおる病にかかれるだろう 斉藤斎藤


雨の県道あるいてゆけばなんでしょうぶちまけられてこれはのり弁 斉藤斎藤


「この世代の歌人のなかでは、斉藤斎藤の言葉にもっとも新鮮な「反」の感触があると思う。どの角度からもアイロニーに見えてしまう真情の提示、同情の余地のない貧しさの受容、勝手に塗りつけられた幻想の削ぎ落としなど、言葉の敗戦処理を引き受けているような印象がある。これは「零の遺産」ならぬマイナスからの歌作りではないか。その不毛さに驚きつつ、絶望に希望を直に上書きするような作歌スタイルが生み出す異様な緊張感に惹きつけられる。」
   
(第5章 前衛短歌から現代短歌へ  せんごはとおい  より)


・・・


地の果てへ向かう心地に新宿の動く歩道をずんずん歩く 天野和子


むしあつき夜の底ひにぬけぬ棘のごとくに火照る東京タワー 高橋みよ江


百貨店家具展示場流刑地のごとし寝椅子におのれ沈めて 塚本邦雄


世もすゑのすゑのすゑなるキオスクに嬰児の甘露煮をならべよ 塚本邦雄


地下売場に溢れんばかりの食品がかき消えているわが昼の夢 松村洋子


幼稚園青葉祭の園兒百 なぜみな遺兒に見えるのだらう 塚本邦雄


かの人も現実に在りて暑き空気押し分けてくる葉書一枚 花山多佳子


人間は予感なしに病むことあり癒れば楽しなほらねばこまる 斎藤茂吉


現実は孫うまれ来て乳を呑む直接にして最上の善 斎藤茂吉


目のまへの売犬の小さきものどもよ生長ののちは賢くなれよ 斎藤茂吉


中年のわれは惰眠を棲処とし長きゴールデンウィーク過ごす 高野公彦


ねむる鳥その異の中に溶けてゆく羽蟻もあらむ雷ひかる夜 高野公彦


あれはどこへ行く舟ならむいつ見ても真つ新なるよ柩といふは 高野公彦


妻という安易ねたまし春の日のたとえば墓参に連れ添うことの 俵万智


焼肉とグラタンが好きという少女よ私はあなたのお父さんが好き 俵万智


逃げ遅れ叫ぶ夢より目ざむれば畳みのうへに踏竹一個 高野公彦


現し世の命いとしもゆつくりと桃を回して桃の皮むく 高野公彦


ただひとつ惜しみて置きし白桃のゆたけきを吾は食いをはりけり 斎藤茂吉


味噌汁は尊かりけりうつせみのこの世の限り飲まむとおもへば 斎藤茂吉


関節の正しく五十五年間うごくを謝して雨夜あゆめり 高野公彦


神がゐるならばその神見せよなどと言わず私は生きてゐればよし 高野公彦


神はゐてもゐなくても良しみちのくのかやの実せんべい食ひつつ思ふ 高野公彦


山削るが如く平らくなりてゆく昭和七十三年日本人のかほ 小池光


食後のむくすり十一種十三錠ひとつ足らぬといひて嘆かふ 小池光


夏の葉桜つらぬき差せる日のひかり広瀬武夫の墓、大鳥圭介の墓 小池光


太腿に千枚通しつき立てて睡魔に耐へしむかしの人々 小池光


突風に生卵割れ、かつてかく撃ちぬかれたる兵士の眼 塚本邦雄


風景より風景としてバス停のそばにひねもす栗売る男 俵万智


ピストルの音 いっせいにスタートをきる少女らは風よりも風 俵万智


一年は短いけれど一日は長いと思っている誕生日 俵万智


「じゃあな」という言葉いつもと変らぬに何か違っている水曜日 俵万智


それならば五年待とうと君でない男に言わせている喫茶店 俵万智


捨てるかもしれぬ写真を何枚も真面目に撮っている九十九里 俵万智


「寒いね」と話しかければ「寒いね」と答える人のいるあたたかさ 俵万智


さみどりの葉をはがしゆくはつなつのキャベツのしんのしんまでひとり 俵万智


天竺からみれば第三セクターのような大和のほとけほほゑむ 馬場あき子


生き甲斐の統計の首位に子を思ふ父の情のあはれくれなゐ 馬場あき子


熱心にいふとき胸に手を当つる男友達ゐて夏は来ぬ 馬場あき子 


柚子もぎてゆきし人あり冬の夜の道を匂ひてゆきしを思ふ 馬場あき子


馬に乗りけりその大きさとやさしさの手より心にしみ入るやうな 馬場あき子


水禽の陸に上りて歩むこと拙きゆゑにみづみづとせり 馬場あき子


針の穴一つ通してきさらきの梅咲く空にぬけてゆかまし 馬場あき子


「いいですね、あれは」といへば夕暮れでこの座談会終わりも近い 馬場あき子


ある日ふと手より枯れゆくわれを見る麦秋の香に覚めしひかりに 馬場あき子


いのち深くあたたかきところにをとめごのゆめありしことしだいに忘る 馬場あき子


乗りちがへたり眼ざむれば大枯野帰ることなきごとく広がる 馬場あき子


寝不足の頭ばかりが大きくて朝のミルクのわつとこぼせり 小島ゆかり


われにふかき睡魔は来たるひとりづつ雛人形を醒まして飾り終ふれば 小島ゆかり


冷蔵庫に五ポンドの肉を蔵ひをへしづかなりふとわれも蔵はる 小島ゆかり


霧の奥へみちびく霧の道ありてわれみづからへ入りゆくごとし 小島ゆかり


男の子なるやさしさは紛れなくかしてごらんぼくが殺してあげる 平井弘


撃ちし記憶われらはもたず戦いの日をひもじさとして受けとめて 平井弘


収穫祭 稜線ちかく降りたちて betwen や up や away を摘めり 大滝和子


少数民族の最後のひとりの瞳して玄関先にミルク取りにゆく 大滝和子


・・・


2008年11月06日

9月18日(木)〜24日(月)

渡沖。

1995年に一瞬立ち寄っただけの久米島に

13年ぶりに滞在。

天候良好。