『「若者はかわいそう」論のウソ』(海老原嗣生 扶桑社新書)より引用
大きな変化の二つ目=少子化は、円高に先んじること10年、1970年代後半にすでにその流れが生まれている。最初は、71-74年の第二次ベビーブームへの反動かと思われた出生数の減少は、とどまることを知らず1980年代後半にはベビーブーマー比3割減の年間140万人台を割り、1990年代には120万人台、現在は110万人を割るまでに深刻化。この70年代前半のベビーブーム、後半以降の少子化が、90年代の大学経営を大きく狂わせた。まず、90年代前半。この時期は、ベビーブーマー世代の大学学齢期にあたる。当然、人口増に伴い、ビジネスチャンス!と多くの大学が定員を増やし、ここぞとばかりに大学の新設も相次いだ。
しかし、その後に、急激な大学学齢人口の減少が起きる。このとき、文部行政が過ちを犯した。最低でもここで、大学の新設や学部学科の増設はストップしなければならない。
ところが、現実はまったくこの逆になった。
第二次ベビーブーマーの最終卒業年度にあたる97年以降、2002年までの5年間で、大学数はちょうど100校増加(増加率は17%)。基礎人口激減の中でそれまで586校だった大学は686校になる、という、まったく無定見な政策がとられたのだ。
こんな状態だと普通なら、大学は「定員割れを」に頭を悩ませることになるだろう。しかし、行政は間違いの上塗りをする。1997年にAO・一芸入試などの「誰でも大学に入れる施策」にGOを出したのだ。その結果、大学進学率が急上昇して、おかげで(?)学生不足にならず大学に淘汰は起こらなかった。
しかし、このAOや推薦制度が、単なる「欠陥」に近い制度だった。入学後の厳しい成績トレースや学習指導など、欧米のAOに必ず付いてくる仕組みが欠けていたのだ。要は、「卒業は簡単な日本の大学」のままで、「入学も簡単」にしたことになる。この結果、学習力・知識に乏しい学生が大量に生み出されていく。いま、私立大学では推薦・AO経由の入学者が全入学者の半分を超えた(50.8%)。もちろんAOや一芸入試は学業成績に基準を設けない大学が大多数(89.5%)だが、なんと推薦入学でもすでに3分の1以上(36.8%)の大学が、成績基準を設けていない。
さらに文部行政の失策は続く。
さすがに90年代後半から2000年代初頭になると、経営に不安を抱く大学も増えた。彼らが行った新たな経営策。これがまた横並びなのだが、「資格」が取れて、就職先に困らない、という学部の増設・改編に走ったのだ。
この呼び水になったのが、2001年の文科省による大学設置基準の緩和。地域要件等とともに、「総定員が変わらない中での、学部増設・定員変更」が大幅に要件緩和されたのだ。資格が取れるから学生を募集しやすい、という理由で、医療/介護・薬学・看護・法律(ロースクール)・教育・心理(臨床心理士)、この6系統の拡充が大学全体の流行となり、その結果、本来こうした資格系を教えていた専門学校や短大の経営不振を招く。そこで、今度は専門学校・短大の大学格上げを認める、という形で、ボタンの掛け違いは続き、2002年から2009年前の7年間で、大学はさらに87校も増えた。
どうだろう?
人口減少のなかでこれだけ大学が増え、大学生も増え、大学進学率も上昇した。
(中略)
大学が増え、大学生が増え、さすがに彼らも「大学を出たんだから、大企業でホワイトカラーを」と思いだす。すると、企業側の受け皿が不足し、若年未就業者が増える。
この状況を、なぜ「企業の人件費削減による正社員切り」とマスコミは報道するのか。
決して大企業は採用を減らしていない。大学生が増えすぎたことが第1の問題であり、第2の問題は、中堅中小企業や販売・サービス業などを志望しない、という嗜好の問題がある。そして、第3の問題。こちらは、「大学無試験化」により、小中学校の基礎知識さえ習得していない社会人不適格な大学生の増大。これでは大手の採用試験をパスできない。
就職氷河期の内実は、こんなところだろう。
続いて、社会構造の変化が与えた影響として、フリーターや引きこもりの増加を考えたい。
この理由を今までは、「企業の経営環境の悪化」に伴う「正社員採用の減少」と「成果主義などの殺伐とした風土の広がり」と考える論調が主流だった。この二つとも誤りだと指摘したい。
まず、もうくどいようだが、ホワイトカラー正社員はまったく減っていない。学卒就職者も減っていない、という事実。さらに言うと、長期フリーターと呼ばれる人の8割近くはかつて正社員経験がある、ということ。
(中略)
とすると、なぜ、フリーターや引きこもりが増えたのか。こちらも、社会構造の地殻変動に端を発すると考える。
農林漁業の衰退、製造業の海外移転、公共事業削減による建設業の衰退、そして、サービス業の大規模効率化による自営業の衰退。この4つの動きが相まって、結局、社会にはホワイトカラーと販売・飲食・サービス業しか残らなかった。それは即ち、「大規模な集団」で「対人折衝業務」を行う、ということに他ならない。「人と接せず」「のんびり仕事をする」ことが極めて難しくなっている。
だから、フリーター、ニート、引きこもりは増えているのではないか?
ならば「対人折衝主体の社会」というものに目を向け、解決策を考えるべきだろう。
『ニッポンの海外旅行—若者とメディアの50年史』(山口誠 ちくま新書)より引用
九〇年代の半ばまでに、日本のバックパッカーには三つの世代が生まれたことがわかる。まず欧米発のヒッピー・カルチャーの薫陶を受け、主にヨーロッパやインドを歩いた七〇年代の第一世代がいる。そして沢木耕太郎の『深夜特急』で鮮やかに提示された「アジア」「リアクション」「自分探し」を特徴とする、八〇年代の第二世代がいる。さらに第二世代と同じ「アジア」「リアクション」の旅を志向しながら、最後の「自分探し」を〈わたしの個性〉ではなく〈わたしたちのなかの日本人性〉を探す旅として読み替え、日本人の眼から見た異文化体験を他の日本人に語ることで「海外で日本を生きる」旅をおこなう、九〇年代の第三世代がいる。(中略)
猿岩石の貧乏旅行は、屈強な反骨精神を宿した個人を、あるいは長期旅行に生きるバックパッカーを生み出す旅ではなかった。彼らが旅の果てに手に入れたのは、そうした反社会的または非社会的な姿勢ではなく、理不尽な困難を強いられても素直に受け入れ、ときに感謝を口にするような、そして日本に帰国しても「やっていける」ような、検挙で従順な「日本人の好青年」の姿だった。猿岩石の旅は、ある種の古典的な日本人観の上に成立する「日本人探し」のプロセスを、番組制作者と出演者と視聴者の三者が共有するテレビ番組であり、いわば「日本人作り」のリアリティ・ショーだった。(中略)
そしてその後に若者の海外旅行離れが一貫して進行した現状から見れば、九六年の到達点は、八〇年代半ばの『深夜特急』かた沸き起こった、バックパッカー・バブルの終止符にも見える。(中略)
スケルトン・ツアーでは、航空券とホテルは出国前に事前予約するため、どこのホテルに何泊して、いつ帰国するのか、予め定められている。(中略)
とくに短期のツアーでは、現地で過ごす時間は二日か三日、ときには実質一日ほどの場合もあるため、旅行の「終り」が強く意識される。その限られた時間にショッピングとグルメを中心とする予定を詰め込むには、綿密な予習と、高い効率性が求められる。(中略)
こうした綿密な予習と高い効率性が求められる時間管理に慣れていない学生や、それを面倒と感じる若者は、スケルトン・ツアーが定番化した海外旅行そのものを敬遠する。(中略)
スケルトン・ツアーが主流になった二〇〇〇年代を生きる若者たちにとって、東アジア都市とビーチ・リゾートへ行く敷居は格段に低くなったが、その他の旅行方面へ向かうハードルは、かえって以前よりも高くなったのである。(中略)
旅先の日常生活の文脈と接点を持たない、つまり脱文脈化を推し進めてきたガイドブックとスケルトン・ツアーは、それぞれの旅先に根ざした歴史と文化を切り捨てて見え難くした結果、ソウルも香港も、そしてグアムもサイパンも、似たり寄ったりの「同じ海外旅行のかたち」に加工して提供している。(中略)
そして旅先の違いよりも旅行代金の違いがより意識化される海外旅行では、そもそもなぜソウルへ行くのか、またなぜサイパンではなくグアムに行くのか、という動機の設定が希薄なため、燃油特別付加運賃(サーチャージ)の高騰や円安の影響などを受けて旅行代金が値上がりすると、行き先にはこだわらずに最も安い旅行商品に人気が集中したり、あるいは海外旅行そのものから離れていくようになる。