「情報そのものについても同じことが言えて、スイスにハンス・ウルリッヒ・オブリストという有名なキュレーターがいるんですが、彼に『今度グァテマラに行くんだけど、いいアーティストはいるかな?』とメールすると、即座に返事がくる。要するに、情報を出し惜しみしないでどんどん出していく。そうすることで、彼はネットワークの中心にいるんです。情報にしろ何にしろ、シェアしていくことを積極的にやることによって、ネットワークの真ん中に座ることができるわけで、今までとはストラテジーが変わったと思うんです。とにかく物事の考え方を根本的に変えないといけない。これに気がついていない人は、時代から置き去りにされます。」
南條史生「生活とつながるアート」より
『広告』vol.386 2011年7月号 所収
三浦: 松原隆一郎さんが、毎日新聞の書評で「シェアの話をしよう」を取り上げて下さったんですが、シェアし合う消費というのは、結局アダム・スミスの言う「共感」としての経済という原点に戻ったんだということを買いて下さったんです。サントリー学芸賞を取った『アダム・スミス』(堂目卓生/中公新書)を読むと、スミスはいま一般的に思われているように、単に自由放任で競争すればいいと唱えたわけではなく、また格差を生む社会を是としていたわけでもなく、むしろ共感にもとづく富の公正な配分を重視していた。市場とは本来競争の場ではなく互恵の場である、世話の交換の場であるとスミスは考えた。「個福」ではなく「公福」を念頭においた学問だったわけです。
河尻: そういった考え方は経済学のトレンドにもなってきているようで、ノーベル経済学賞を受賞したオストロム教授の功績は、「経済学の根本は市場に関することではなく、資源分配の問題だ」と示したことにあると評する人もいます。
三浦展「新しい市民倫理としての『シェア』の話をしよう。」(聞き手 河尻亨一)より
『広告』vol.386 2011年7月号 所収
「若者の嗜好が尊重されている。
若者は、自分の好きな方向が認められる、と思ってしまっている。
大人は、だれもそんなことは認めていない。ただ、若者文化というエリアを作れば、より儲かるだろうと、そういうものを売ったにすぎない。若者でなくなったら、次のエリアの文化に入って別の金の使い方をしてもらいたい、と要請してくるばかりだ。」
「かつては集団で営まれていたものを、分解すれば、それは商品の買い手はどんと多くなる。つまり商品は売れる。
具体的に言えば、昭和の昔は、テレビも電話も、家庭に一つあれば事足りていた。」
「これをテレビ一人一台ずつ、電話も一人一台ずつ売れば、爆発的に市場が広がるではないか、と考えて、それが実行されたら、そりゃ経済は拡張しますよ。でもそれを売り切ったら停滞する。そんなレベルの話を景気不景気で語ってもしかたがない。」
「個人が個人として尊重されていると錯覚できる世の中になった。
それは、あくまで錯覚である。個人個人の自由裁量のエリアは広がったかもしれないが、それはどこかほかの自由な部分を削って、そこに当てているだけだ。家族を解体すれば、さしあたっての鬱陶しさはなくなるが、家族が持っていた本来の社会的機能は何かで補填せざるをえなくなるわけで、そんなものがすぐに用意されるわけがない。
落ち着いて考えればわかるが、個人を尊重する体を装って、いろんなものを個人ユースにして多くの物品やサービスを売っているのが、社会的な発展だったり、経済的な発展につながったりするものであるわけがない。」
「分割は発展ではない。」
「個が完全に尊重される社会では、子供は増えない。ものすごく大勢の子供がいるならば、そこはそれで窮屈で集団としての生活を余儀なくされるわけで、個の尊重は少子化を進めていくばかりである。」
「社会が貧乏になり、集団への帰属が高まると、少子化は止まる。でもそんなのは人にコントロールできることではない。」
「個が尊重されていくにつれ、なにかしら、社会的な参加をしていないと不安になる。」
「となると、いきなり『大きな正義』に加担してしまう。町内清掃のボランティアに行くか、でなければ、地球環境を考える、ということになってしまう。正義に身体性が失われている。」
「おれたちの公共性は、あれぐらいなものなのだ。個人の生活が豊かになってるんだから、ゆっくりと沈んでいくのはしかたがないだろう、とおもいきれるかどうかである。人間社会は、どっちかを取るようにしかできていないのだ。」
堀井憲一郎『いつだって大変な時代』(講談社現代新書)より引用
「コメディ、すなわち笑いというのは、共感をベースにします。ギャグではなくて、人物や出来事の『あるある』ネタ。」
「広告はいつも『これは、あなたに関係ある話ですよ』と言おうとしているのではないでしょうか。」
「そこで『関係ある』と思ってもらうために、『共感』や『憧れ』や『面白い!』や『コレがいま流行りです!』みたいな手法を工夫する。」
「親子や恋人とのありふれた物語を、時代に合わせて鮮度アップするのと同じようなことを、広告もやっていると思いますね。大貫卓也さんも言っていますね。自分の企画は普通なんだ。だから、すごい完成度にしてコミュニケーションすることに徹底的にこだわるんだって。」
「難解が効く場合もあるし、わかりやすい方が効くなら徹底的にわかりやすくする。『いいね!』みたいなゆるい共感のつながりが効くならそれを使う。」
鈴木聡「わかりやすさとは『あなたの物語』であること」より
『広告』vol.385 2011年4月号 所収
「一つは、フランスに留学して知ったのですが、フーコーやドゥルーズといった当時持てはやされていた思想書をフランス語で読むと全然難しく書いていなかった、というのがあります。」
「今では哲学や思想でも、難しく書いたところで相手にされなくなってきています。一つにはフランス現代思想の地位が失墜したということがあると思います。日本で言えば、20年前はフランス現代思想だったのが、今は社会学になっている。社会学は、身の周りの問題意識から始めるし、難しい理論というよりは、人々が持っていたのとは全く異なる常識があることを指摘する学問。殊更に専門用語を振りかざすことも少ないから、わかりやすいですよね。」
「20年以上景気が低迷して、人口構成的にもデフレが本格化する時代になりました。経済も成長しないし、分配するものが減ってくるのがいよいよ見えてきた。まずは社会にせよ制度にせよ、一回ゼロベースで考えないと持たないという意識が出てきますよね。」
「2007年にライターの赤木智弘さんが『希望は、戦争』という文で、なぜ若いやつだけが割りを喰わなければいけないんだ、一部の若者が苦しむ不平等よりも全員が苦しむ平等の方がいい、と論じて大きな話題となったように、『自由』より『平等』の方が重要なテーマになっているんです。」
萱野稔人「『わかりやすさ』と『原点』を問い直す時代」より
『広告』vol.385 2011年4月号 所収
「現代というのは言語情報をやりとりすることがあまりにもヒートアップしていて、たぶん人類の歴史上、もっとも言語が支配的になっている時代なんですね。」
「そして、言語情報は、現実とは関係のないヴァーチャルなものです。例えば、目の前にいない鈴木さんを思い浮かべることは、人間独自の機能です。それを行うとき、私たちは脳内で現実と切り離されたヴァーチャル世界を構成する、という非常に特殊な操作を実は行っていて、これはものすごく疲れることなんです。」
「誰でも風呂に入るときなどには身体感覚がより強まるので、言語の書きかえ作用がだいぶ鎮まって、思考も鎮まるでしょう。そういうときにリラックスするということを直感的に多くの人が知っていますよね。」
小池龍之介「わかるとはどういうことか」より
『広告』vol.385 2011年4月号 所収
「もともと脳は、なるべくエネルギーをかけないように行動を決めていると僕は考えていて、それを『脳における認知コスト』と言っています。
毎日同じことを繰り返していたら脳は何も考えなくていい。そうすると、脳はそっちを選ぶわけです。支払うべき『認知コスト』が低いから、新しいことをやらなければいけないときは、自分も考えなきゃいけないし、周りの人も説得しなきゃいけないから、ものすごく大変で、脳はその分よけいにエネルギーを使わなければいけないので嫌がる。自分が考えなくてもすむシステムを社会がつくっているほうが脳にとってはうれしいのです。
たとえばヒトの脳はチンパンジーの脳に比べて容積は4倍近くもあるのに、脳血流は2倍弱しかない。つまり、ヒトの脳内のエネルギー需給バランスは他の動物と比べても過酷なのです。脳に栄養が足りないのだから、効率化を進めないとうまく働かない。
僕は、昔から自分も含めてヒトっていうのは、どうしてもこんなに楽ばかりしたがるのだろうと思っていました。しかし、血流の噺を聞いて得心したのです。いつもお腹の減っている脳が、常に最も効率のいい方法を選ぶのは当然じゃないかと。
脳内の処理速度を良くするシステムとして、考えなくてもオートマティックにできるシステムを発達させない限り、ヒトは一歩も歩けない。これは、ロボットや人工知能のフレーム問題として顕在化している問題です。
一方、脳が支払わなければいけないエネルギーのコストという視点で考えると、『社会性』は一人一人の脳が支払わなければいけないコストを下げてくれるというメリットがあります。それは、ルールがわたしたちの考える手間を省いてくれるからです。さらにそれを集団に拡張すれば、社会全体が払うべき認知コストが下がるということになります。それは社会にとって望ましいことに違いありません。
何をやっても良いという、自由になったときって以外と一番困るじゃないですか。何をしていいかわからない。そこに社会が『君は今これをやればいいんだよ』『こう振る舞えばいいんだよ』ということを言ってくれると脳にとっては認知コスト的にうれしいわけです。自由度が上がるということは、ものすごく何か価値のあることのように思われるけれども、実は脳にとってはすごく負担になることだということを覚えておいた方がいいですね。」
藤井直敬「脳科学からみたモノづくりの社会性」より
『広告』vol.381 2010年4月号 所収
「これからはむしろ、視聴者や顧客との共犯関係として、おもしろいことをやっている作品を評価する新しい基準を設けるべきじゃないかと思うんですよね。
今、力のある作品というのは、基本的に、どこまでが作品で、どこまでが消費なのかわからないようなもので、そこで起こっている運動の美しさを論じないと、ほとんど意味がない。そういったものを受け入れた上で、強度のある表現をいかに追求するかを考えなきゃいけなくて、コンテンツ自体よりもコンテンツを通じたコミュニケーションが優位になっている今の世の中はけしからんというようなことを言ったとしても、壁に向かって手を振っているような徒労感がつきまとってしまいます。」(宇野常寛)
特別対談「いま、ネット空間では何が『生産』されているのか」宇野常寛×濱野智史 より
『広告』vol.381 2010年4月号 所収
「面白かったのは、プレバブル世代(バブル景気前に社会人になった人)とポストバブル世代(バブル景気崩壊後に社会人になった人)では、モノに対する価値観が異なっていること。主観も交えて大雑把に特徴を挙げると、プレバブル世代は、モノを所有すること自体への執着もまだあり、新しいフォルムや質感といった要素に反応する。一方で、ポストバブル世代は、モノの所有より経験に価値を置き、使い込んだフォルムや質感といった要素に関心を持つ。」
川島蓉子「ポストバブル世代に向けた市場をつくっていくには」より
『広告』vol.383 2010年10月号 所収
「現代の若者たちは、どこにお金を使うのか。それは、『誰かに自慢するため』でも『みんなと同じものを持つため』ではなく、『自分自身がいかに快適になるか』が重要になる。つまり、『モノ中心』ではなく『自分の気持ち中心』に動いているのだ。『モノが欲しいから、お金が必要』なのではなく、『心の快適が欲しいから、お金が必要な場合もある』という新しい考え方は、『お金と引き換えにモノを手に入れること』ではないこともある。たとえば『ユニセフに毎月一定額を募金する』ことでも、若者たちは『心の快適』を手に入れることができるのだ。
若者たちの『お金の使い方』の特徴的な事例のひとつとして、『応援消費』という行動がある。例えば『ひとりでコツコツつくっている職人の革製品が好きで、今後もそのブランドに残ってほしいから定期的にそこの商品を買い続ける』『自分が好きな映画だから、再生機を持っていないのにブルーレイディスクを買う』など、手に入れる商品やサービスそのものへの欲求だけではなく、『作り手のポリシー』や『手に入れる(お金を払う)ことで起こる『(他者にとっての)良いこと』』などを加味した上でお金を払うのだ。つまり現代の若者たちは、商品やサービスの『その先』を見ながら財布を開いている。」
「『心を満たすため』にお金を使う若者たち」より
『広告』vol.383 2010年10月号 所収
・「3331 Arts Chiyoda」名前の由来は?
「江戸の一本締め」なんです。3と3と3を足すと九であり苦でもある。もう1回手を打つと点がついて苦を払い、丸くなると言われているんですね。その前の「いーよぉ!」というのが「祝う」という意味で、根本にあるのは苦しみを幸せに変える「感謝」なんです。
「江戸の一本締め」はいわば、古くからこの地に伝わってきた街の人が一瞬のうちに一体感をもつコミュニケーションの方法なんですね。このアートセンターのコンセプトが、その地域に根づいている文化を大切にすることなので、それを記号化して視覚化することで、そこに宿っている風習や精神が、新しい意味に置き換えられ、新たなメッセージとして組み立てられるんじゃないかと思っています。
TOKYO SOURCE 中村政人インタビュー より
中村政人:アーティスト、東京藝術大学絵画科准教授、3331 Arts Chiyoda 統括ディレクター