2011年11月02日

「要するにグローバル化というのは、世界が1個につなげられて、そのネットワークに生きている人間が全員登録されてしまうことです。そうするとこれまでは接しなかった人間同士が接するようになり、つながらないはずのものがつながる。9.11的な問題というのはこの不可避の潮流に対する反作用と考えたほうがいい。この暴力は個人の意思という以上に、何かシステムエラーのようにして発生する。そして、このシステムエラーの問題は個人の自意識の問題を解決すれば解消するわけではない。
 村上春樹は『父』という概念を重視しています。ここでの『父』とは生物学的な『父』ではなく決定者のことですね。何かに線を引き、価値判断を示し、その責任を取る。春樹は長く『父』にならないこと、価値の宙づりに耐えることが倫理としての『デタッチメント』だとしてきたけれど、90年代からためらいながらもゆっくりと『父』になること、『コミットメント』に舵を切った。けれど、僕はここに落とし穴があると思う。
 グローバル化、ネットワーク化というのは誰もが自覚しようがしまいが、不可避に、自動的に『父』になってしまう、機能してしまう世界だと思うんですね。コンビニでサンドイッチを買っただけでも、それが世界経済の一部に組み込まれどこかに影響を与えてしまう。ツイッターで何気なくこの女優が好きとつぶやくだけでも、それは一つのメディアとしての情報発信になる。誰もが自動的に経済的な主体になるし、小さなメディアになる。だからグローバル化やネットワーク化というのは、要はコミットメントしかない世界をつくることなんです。貨幣と情報を完全に遮断でもしない限り、デタッチメントはもう無理なんです。老いも若きも、男も女も、全員ある種の『父』になってしまうということなので、あとはもう、その『父』同士がどう共存するかという問題しか、世界にはないはずなんですよ。『卵』と『壁』の対立があるのではなく、小さな『父』同士の関係性だけがあると。」

「たとえば2002年の『仮面ライダー龍騎』は13人の仮面ライダーたちがそれぞれの『正義』を掲げて殺しあう展開で注目を集めました。これは当時のスタッフの証言によると、テレビ局からの『9.11のアメリカ同時多発テロへの回答を示してほしい』という要望に応え、現代的な『正義』を追求した作品になったわけです。
 これは言ってみれば、自動的に『父』として機能してしまう者(ヒーロー)同士の関係性(戦い)が主題となっている。春樹が受け止めきれなかった9.11を、まがりなりにも受け止めているんですね。」

「自然災害というのは物語化が難しい。同様に、グローバル化の反作用もそうで、誰が悪いわけでもないわけです。アメリカが悪いと言いたい人が多いだろうけど、でもアメリカでなくても、インターネットやグローバリゼーションはたぶん出てきたと思うんです。だって、そのほうが便利だから、みんな勝手にそうしていくわけで、そこには何か明確な悪い意思を持った人間とか、悪いイデオロギーがないけれど、暴力が発生してしまう。そういう物語化できない暴力をどうとらえるかということが、今回の震災においても問われていると思うんです。それは言い換えると、国民国家の軍隊の比喩ではない怪獣をどう描くかということでもあるわけです。
 システム自体が生む暴力をいかにイメージ化していくのか。原発は第2の自然というか、人間が生み出したものなんだけど、どこか人間が制御しきれないところがあって、インターネットにすごく似ている側面がある。結果的にだけど、半ば自然のように機能してしまっていて、物語化できない大きな力として立ちはだかっているということだと思うんです。自然災害というのは一番わかりやすい例ですが、そもそも本来、人間の運命を規定する大きな力というのは、そんなに簡単に物語化できるものではないはずなんです。
 たとえば、戦争だったら、軍部が悪いとか、ヒットラーが悪いとか言えたと思うんです。でも、原発の場合、もちろんエネルギー政策が間違っていたみたいな議論はできるけれど、もうちょっと大きな視点というか文明レベルの話をどうしてもしなければいけないと思うんです。つまり、人にとって手に余るような力とは何かといった話をしなければいけない。そのときに、悪者を探すような議論ばかりしていても、問題の本質をとらえ損なうと思うんです。
 いま問われているのは、原子力という20世紀的な進歩主義の結晶だったのに、結果的に余りにも強大すぎて自分たちのコントロールを離れたものを人類社会が抱え込んでしまったというとても大きな話なんです。
 だから、大きな物語が復活するとしたら、原子力をどうするとか、宇宙をどうするかとか、そういった文明レベルの話でないと、もう復活しないと思うんです。
 こんなことを言うとすごく叩かれるかもしれないけど、実は原発がこんなに我々の社会を怯えさせているのは半分は文学の問題だと思います。これは非常に大きな課題だと思いますね。」


宇野常寛「小さな物語と大きなゲーム 〜リトル・ピープルの時代を語る〜 」より

『広告』vol.387 2011年10月号 所収




2011年11月01日

「印象的な例では、イギリスに留学したりして、どちらかといえば国際志向だった学生が、インターンシップで長崎の五島列島にある小値賀町という風光明媚なところへ行って、そこに感動して、一旦、それこそ丸の内のど真ん中で2年ほど働いていたのを辞めて、移り住んだという例もあります。
 そういう傾向に対して、若者が内向きになったとか、海外へ行かなくなったとか、覇気がないなどと批判するのは全く的外れだと思うのです。何でも外に行けばいいというのでこれまでやってきて、今の地域の空洞化や疲弊が起こっているわけですから、若者がローカル志向、地元志向になっていきたというのは、大げさに言えば、日本を救っていくような流れで、むしろそれをいかにバックアップしていくかという政策を考えるべきです。
 結局、外向きか内向きかというのは、外国に行くから外向きで、日本のローカルにいるから内向きということでは全然なくて、大事なのは、表面的な行動ではなくて内面的な意識の問題のはずです。戦後の典型的な日本人は、企業の一員として海外にどんどん行っていたけれど、意識は極めて内向きだった。今の若者のほうが、外面的に見ると、地域とかローカルとか言っているけど、意識はむしろ外に開かれている。ちょっと若者に甘いかもしれないですけど、そういう部分は決して否定できないと思います。」


広井良典「脱成長期とシェア社会」より

『広告』vol.386 2011年7月号 所収