2012年06月09日


内田樹 釈徹宗 『いきなりはじめる浄土真宗』(本願寺出版社) より引用


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 話がややこしくなりましたが、私は釈先生が引用してくださった「何ごとの おわしますかは 知らねども かたじけなさに 涙こぼるる」という西行法師の歌の話をしているのです。
 この歌には宗教性の二つの条件が書かれています。
 ひとつは「なにごとのおわしますか」を「知らない」という人間の側の知の節度が表明されていること。
 その「私を超えるもの」に対する「絶対的なビハインド」が「かたじけなさ」という実に含蓄のある言葉で表現されていることです。
「かたじけない」(忝い、辱い)とは「恥ずかしい」「恐れ多い」「過分の恩恵や好意を得て、身にしみてありがたい」といった複雑な含意をもつ言葉ですが、「神に対して絶対的に遅れていること」の人間的感情をひとことでこれほどみごとに表す言葉を私は他に思いつきません。
 釈先生は「おかげさまで」という挨拶にも主語がないことを宗教性の重要な指標として示されていましたが、私もその通りだと思います。
「感謝をしたいのだけれど、誰に感謝してよいのか分からない。なぜなら、『誰に感謝してよいのか分からない』という事実こそが人間が『世界の創造に遅れて到着したこと』の証拠であり、その事実に対して人間は『感謝したい』と思っているのである」という順逆のねじれた仕方で人間の人間性=宗教性は構成されているからです。
 ですから私は「誰に対して、どのように感謝してよいのか、私には分かっている」と言い募る人間を「宗教的な人間」であるとは思っておりません(こんなこと書くと、世界中の宗教家にケンカを売るようなものですが)。
「私はどうしてよいか、わからないので、とりあえず手近なものをいろいろ集めて感謝の意らしきものを表してみました。どーも、不細工ですみません」という祈りの儀礼に対する「恥じらい」が宗教の純良さを担保するものではないかと私には思えるからです。
 ですから、日本人が制度宗教を苦手とするのは、その根本に「これが『ワンアンドオンリー』の完全なる宗教儀礼であって、これだけやっとけばもうザッツオーライ」という考え方そのもののうちに「神への不敬」を感知するからではないかと思います。

 レヴィ=ストロースは「手近にあるものをなんでも使ってものを作ること」を「ブリコラージュ」と呼び、それを「野生の思考」の一つの特徴として挙げています。
 その意味では、私は宗教的には「野生の人」なのかもしれません。

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