Sの「曲がらない」という言葉の意味を理解しないまま、午前四時、我々は店を出た。
Sはヨーロッパ女に別れを告げているようだ。
女は私を一瞥し、残念そうに我々に背を向ける。
「いいのか?」
私は木製の扉を閉めて歩き出す。
「背骨の曲がらない男に何ができる」
Sは依然として私の方を見ようともせずに呟く。
新宿通りでタクシーを拾うというSと別れ、私は言葉の意味を考えた。
フランス語特有の慣用句だろうか。だとしたら面白い。
英語すら満足に話せない自分には、恐ろしく深い神の領域にも等しい。
酔いに任せて職安通りをひたすら歩き、明治通りで空車を拾う。恵比寿まで。
工事現場で連なっている通りを走る車。加速する街の光は美しくない。
背骨の曲がらない男はタクシーに乗れるのだろうか。
私は背骨の曲がらない男を想像する。
慢性的に直立不動。
ベッドに横たわる時は常にダイブから。
冠婚葬祭には全く不向きに違いない。
タクシーは駒沢通りを右折する。
ラジオから聞こえる交通情報は、駒沢通りの事故渋滞を伝えている。
恵比寿駅前にはまだ、いやもう人がいる。
彼らの中にも背骨が曲がらない男はいるだろうか。
Sのフランス語は驚くほど流暢に聞こえる。
背負う要素に起因して発せられる言語には澱みが無い。嘘が無いのだ。
空が白んでくる。
ブリジット・バルドーは最高のビッチだというフレーズを思い出す。
"b"が四つ並んでいる。腰骨に見えなくもない。
人は背骨に支配されている。背骨に抱かれ生きている。
曲がっていないが故に負う原罪は、フランス女から口説かれても応じられないことに換言される。
Sには負うものは何も無い。
「警告 死亡、または重大な障害を引き起こすかもしれない、潜在的な危険があります」
犠牲には程遠い欠落感。失うものは何も無い。
あの夏の日以来、Sには会っていない。
不意に思い出したSの残した言葉をフランス語で囁く。
フランス女もいないのに。
(了)
投稿者 yoshimori : April 4, 2006 09:03 AM | トラックバック