「何年も前のことだけど、シナトラが死んだ時に、彼の娘は家で『隣のサインフェルド』を観てたんだって。で、後で娘は関係者に、『あの時、録画しておけばよかったのよ』って泣いたらしいよ」
男はバーガーショップの二階席から、駅のホームを通過する電車を見ながら電車の乗客に向かって話すように言った。
早口に、極めて感情を込めないまま。
「ていうか、何? さいんふぇると?」
女の来店時から数時間は放置されたアイスコーヒーは、溶けた氷によって何倍にも薄められ、美しくもない分離層ができつつある。
「観たことはないんだけど、前にケーブルでやってた海外のドラマ。コメディー」
「ケーブル?」
「スカパーとかディレクTVとかあるじゃん。WOWOWもそうか。でも、考えてみたらWOWOWに加入してる人って周りにほとんどいないね。100人中3人くらいなんじゃないかな」
「そんなことないよ、実家は入ってたよ。もうやめちゃったみたいだけど」
「ほら」
「何が?」
「俺の周りでは君が初めてだ」
「んー、そうなんだ。で、さっきの話に続きはあるの?」
「ナンシーは予約録画しないんだなって」
「ナンシー?」
「シナトラの娘だよ」
時刻は午後五時になろうとしていた。
反射的に席を立った男は、店員の「そのままで結構です」との発言が聴こえなかったのか、備え付けのダストボックスにトレイごと放り込み、階下へ降りる。
女は男に続く。
「じゃあ仕事に戻るね」
女は小走りに繁華街へと消えて行った。
女の走り去る後姿がひどく不恰好に思えて許せない気分になる。
男は、脇に抱えたキックボードを歩道に下ろしながらと同時に器用に左足を乗せ、黄昏迫る街を右足でアスファルトを蹴りだした。
(了)
投稿者 yoshimori : April 22, 2006 11:59 PM | トラックバック