思い立ったが吉日と車両に乗っかり、うかうかと目指す根津神社。
移動中の車内では当然気絶している。
当社の起源は古く、日本武尊(やまとたけるのみこと)が創祀したとも伝えられる古社で、十八世紀初め、五代将軍綱吉公が養嗣子で次代の家宣公の為に敷地を献納して普請したという。
明治期における廃仏毀釈の際、「権現」の呼称は禁止されたが、地元では親しみを込めて「権現様」と呼ぶ。
参道口
乙女稲荷神社(左)、駒込稲荷神社(右)
乙女稲荷神社
楼門
楼門と本殿
閉ざされた門
残念ながら参詣時間を過ぎていて、門前払い。
本殿・幣殿・拝殿
富坂(現:本郷)での東京帝国大学の校舎新築に伴い、風紀上好ましくないとそれまで門前に市を成した遊郭は廃されたが、当時全盛の吉原には郭(くるわ)難民を受け入れる口はなく、根津遊郭の人々は東京府東南にある湿地帯へと追いやられる。
これが江戸期には「深川洲崎十万坪」とも呼ばれた臨海の景勝地、洲崎(すさき、現:江東区東陽)である。
この洲崎、その方角から辰巳(たつみ)とも称される歓楽街となり一時代を築いてゆくのだが、それはまた別の話。
鳥居から出て、そぞろ歩く。
@根津一丁目
この煎餅屋の階上には、落語立川流家元、立川談志師匠が住むという。
糖尿病を患ってるとも聞くから、このマンションには居ないのだろう、きっと。
NHKの特番で師匠と室内の映像が流れたが、裁断前の千社札や書き掛けの原稿などでかなり雑然としており、孤高と云えば聞こえはいいが、何処か寂しさの漂う部屋だったと思う。
さて、不忍通りを南下して池之端方面へ。
左手に蓮の台を多数浮かべた池が見えてくる。
かつて上野から本郷に連なる台地は忍ヶ岡(しのぶがおか)と呼ばれており、この名に因んで当池を「不忍池(しのばずいけ)」とした。
また、笹が池を囲むように茂っていた様から呼ばれた「篠輪津(しのわず)」が訛化したという説、池畔に男女が忍び逢う出会茶屋が濫立していたからという逸話もあり、諸説紛々である。
園内を散策した後、木製ベンチに座り、紫陽花や小鷺を眺めていると、その遅々として前に進まないぐっだぐだな会話の内容から、両隣が「つがい」の群れであることに気付く。
水面より吹き付ける風が絶え間ないのもあってか、つがいどもの密着度は増すばかりだ。
そのまま繁殖期を迎えそうな勢いも辞さない様子なので、ここはひとつ繁殖地は広く使えとばかりに譲っておく。
蛾眉状の遊歩道を歩き、ライトアップされた堂へと向かう。
十七世紀、公儀に命に依り寛永寺を建立した慈眼大師こと南光坊天海は、当池を琵琶湖レプリカと見立て、湖中の島である竹生島レプリカとして池の東側に中之島なる島を築き、弁天堂を建てる。
この島を弁天島と呼ぶ。
島では「家なき子」らが堂の下に、今夜の寝所を設営している模様。
彼らひとりひとりがこの島に暮らす島民なのだ。
大人ひとりが横になる幅の風除け用ブルーシートは結果として堂の周囲を一巡しており、公的に受注した地味な作業着の工務業者が工事中かと見紛う装い。
屋外で寝っ転がる際には、池で自然繁殖しているという、ワニガメやカミツキガメには、くれぐれも気を付けていただきたい。
蓮と不忍池
不忍池と弁天堂
弁天堂
池より道を隔てた高台には、木造の堂が見える。
寛永寺清水観音堂
宵闇待ち草ってのも遣る瀬無いので、酒精を求めて上野を後にするのだ。
(了)
(0609工期満了)
投稿者 yoshimori : June 5, 2010 11:59 PM