<20100723現在、加筆・訂正・画像準備中>
神経の繊維が磨耗するかと憂うほどに、これまで耳にしたことのない異音が響いて目覚めた。
現在時刻、午前四時。
昨夜、床に就いたのは確か25時を過ぎていたと記憶している。
朝食を摂る猶予すら与えられないまま、まごまごしていると、"Made in Indonesia"と印字されたタグの付いた衣類を手渡され、例えその長袖の全体的な色味を人から尋ねられても説明に窮すのは必須だろうと思いつつ、何かのペナルティを課されてるのかと途惑うほど着用感に羞恥を覚え、義理で一度は羽織ってはみたものの直ぐに脱ぎ捨ててしまった。
無言のうちに車両へと誘導され、否応なく乗り込まざるを得ない状況となっている。
ひとりまたひとりと乗り込んでくるよく陽に灼けた男らは、時折シニカルに笑うだけで、大型バンから降りるまで言葉を発することはなかった。
車両はプレジャーボート係留場の脇で停車し、男らはハッチバックより積んであった道具を舫ってある一艘のボートへと運び入れ始める。
その手馴れた動きは、南方の植民地における雑役夫の荷捌きを眺めているようだ。
桟橋を渡り、「うみうみ丸(仮名)」という名を冠した小型船舶に乗り込むと、色褪せたライフジャケットを手渡される。
蛍光色のオレンジで、胸の辺りから下がるストラップの先にホイッスルが付いている。
気温は時間の経過とともに上昇しつつあり、救命胴衣は暑苦しいこと極まりないのだが、経験則から逆らうのは得策ではないと、降って湧いたサヴァイヴァルに甘んじるしかないのだ。
「錨は巻き上げられ、炎の時代が始まる」
超文明の原動機は唸りを上げ、果てしない出航の運びとなる。
万景峰号級貨物船シルエット
朝日と波と五里霧中
エンジン音が停止すると、船は波に揺れ始める。
目的の漁場に着いたようだ。
船長の手により、錨が海中に没してゆく。
鎖を軸にして船が波に翻弄され始めるのが三半規管で分かる。
船医らしき男から船上で服用すべき薬品を渡され、逆らう意思も理由もなく盲目的にも指示に従う。
全てが身振り手振りのみで行われるのだ。
薬が効き始めるのを待つ間、少しの食事を許される。
携帯食は軍用のレーションだった。
味を選ぶ暇もなく、ただ手渡される物品を受け取り、静かに口に入れるだけだ。
教官らしき男が準備した竿を手渡され、開始の合図を待つ。
じっと待つ。
奇声を発し続けながら頭上を旋回する、凶暴な面構えの海鳥に囲まれながらも待つ。
そして、その時は来た。
船長の発声とともに、男らは次から次へと仕掛けを海中に投げ入れ始める。
直ぐに竿は撓(しな)り、海中より現れる獲物らを船上に放り出すと、雑役夫のひとりは獲物から釣針を外し、船と一体化した巨大な生簀へと次々に放り込んでゆく。
魚信と書いて「アタリ」と読むらしいが、勿論そんな薀蓄をひけらかす余裕もない。
生餌である韓国産磯目の形状と動作が予想以上にあれなんで、当然直に触れない。
苦肉の策として、「ガラス越しのキス」と称した軟弱なオペレーションにて餌付けをこなしてゆく。
ここで、獲物の解説をしておこう。
<鱚(キス)>
我々が日常的に「キス」と呼んでいるのは、シロギスという種である。
全長は約30センチ。
体色は淡い褐色、光の反射で虹色にも見える。
陸に上がった後の衰弱化は早く、直ぐに白い腹部を浮かべる。
その身は脂肪が少なく柔らかな白身で、新鮮なうちに捌いて造りで良し、塩焼きに良し、揚げても良いのだ。
<鯒(コチ)>
生息域が重なている為、キス釣りでは必ず針に掛かる「コチ」、この種、正確には「鼠鯒(ネズミゴチ)」である。
広義ではコチの一種とされるが、分類上ではスズキ目ネズッポ亜目ネズッポ科であり、この地方では「メゴチ」と呼ばれるが、標準和名のメゴチはカサゴ目コチ科であり、完全に別種であるという。
全長は20センチ前後。
背中側は褐色、腹側は白色。
俗に「底物」と呼ばれるだけあって、体は平らで、鰓部は外に張り出し、頭部は三角にて前方に尖り、背面に付いた目は半球形に飛び出しているというグロテスクな風体である。
特徴的なのは、鰓孔の横にある一対の太い棘と、体表は粘液に覆われていること。
調理にあたっては、頭部と内臓を除いた後、体表の粘液を塩で擦り取る。その白身は歯ごたえがあり、造りに始まって天麩羅、唐揚げが愉しめるのだ。
<蝤蛑(ガザミ)>
この地方では「渡り蟹(ワタリガニ)」という。
甲幅は約15センチ。
背面は黄褐色、鋏脚や脚は青色であり、全体に配される白い水玉模様が特徴である。
この地域では別種の蟹(ベニズワイガニ)が幅を利かせている為、この種はさほど重宝されない。
鍋物や味噌汁に放り込まれるぐらいが関の山なのだ。
釣り上げた個体は雌で、外側に迫り出した鮮やかに橙色な内子(卵巣)付きだった。
釣果はコチ、ワタリガニを含め、40匹。
無言で懐から小出刃を取り出すのは、板場担当の男。
船上だからこそ許されるが、往来での同じ動作は官憲の手によって確保されかねない。
刺身醤油と鮫肌で摩り下ろした山葵で皮付き、皮無しと両方いただく。
数分前まで彼奴が磯目を喰らってたかと思うと、しおしおと萎えないでもないが、そこは大人な対応で喰い尽くすのだ。
陸に上がってもまだ午前十時である。
これから彼奴等を存分に蹂躙して、腹の内に収めるという作業が待っている。
そして、この地に別れを告げる時が来たのだ。
(續く)
(0802工期満了)
投稿者 yoshimori : July 17, 2010 11:59 PM