あれから何時間が経過しただろうか。
東京より400キロ、陸より更に数キロ離れた海上から帰還し、陸路を一度北東に向かった後、ひたすら南下するという逆L字を描く行程でたどり着いた新宿区。
重い荷を背負ったままの途中下車にしては長居し過ぎた。
帰らねばなるまい。
わずか四時間後には、迎えの車両に乗ることになるのだから。
現在時刻、午前五時半。
激しくぶつかり合う金属音は、深い眠りからの覚醒に相応しい。
昨日の荷は中身を丸ごと入れ替わり、身に付けている衣類も総着替えとなり、変わらないのは生身の我が身のみとなる。
数十年も前に登山用具専門店で買い揃えた幾つかの装備品を順に詰め込んでゆく。
窓の向こうに狼煙が見え、迎えが来たと知る。
「羽道號」という名の特殊車両の後部座席に押し込まれると、行き先も告げられないまま車は走り出した。
もう逃げ場はないのだ。
気絶と覚醒を幾度となく繰り返し、目的地に到着。
「魔の山」とも呼ばれる谷川岳、三国山脈系の山である。
空は高く深く青く澄み渡っている。
土合口駅よりロープウェイに乗せられ約十分、登山の起点となる天神平駅で降りると、肌寒いくらいに気温は下がっていた。
更にリフトを利用し、天神平峠駅へ。
現在時刻、10時45分。
斜面に向かって歩き出すと当然、体内での燃焼により体温は上がり、呼吸は乱れ、多量の発汗を促す。
一度低く感じた気温だったが、陽が昇るに連れて上昇してゆくのが肌で分かる。
岩と石が延々と続く登山道は尾根である。
馬の背を想像していただきたい。
鋭角な頂点を背骨とすると、両脇は垂直にも近い絶壁となる。
その背骨に沿って歩くのが、今回のルートなのだ。
都心から近いながら、遭難者数は多いと聞く。
我が身にも災厄が降り掛からないとも限らないのだ。
登山道脇に2センチほどの小さな黄色い花を見つけた。
弟切草(オトギリソウ)だ。
花言葉は「怨み」、「秘密」という。
・・・いや、今は何も云うまい。
◆熊穴沢避難小屋
ミネラルウォーターを法外な価格で販売している。
運搬の労力を考えると致し方ないが。
◆天狗のトマリ場
先行する登山者に尋ねると、既に天狗は飛び立った後という。
件の羽団扇が欲しかったのに。
◆天狗のザンゲ岩
先行する登山者に尋ねると、既に天狗は懺悔を終えて飛び去った後という。
件の一本歯の高下駄が欲しかったのに。
◆肩ノ小屋
これが小屋か等と悪態を吐く同行者をなだめながら頂上を目指す。
◆トマノ耳(薬師岳=標高1,963メートル)
ここが山頂と思い込んでいたが、違うと知り愕然とする。
白髪が増えた気がした。
諦めついでに昼休憩。
こっちか。
◆オキノ耳(谷川富士=標高1,977メートル)
ここが"Top of the mountain"である。
頂上でしばしの休息。
遠雷の気配がする。
さあ、とっとと下山しよう。
やはり降り出してくる雨は、やがて雷を伴って激しさを増す。
止む気配はない。
雨粒は時間の経過とともに大きくなる。
小屋だ。
小屋で雨宿りしている間に時間だけは無情に過ぎてゆく。
諦めて下るしかないのだ。
転がるように下りてゆく。
強行軍を行っていると、インパール作戦を思い出す。
16時45分、天神平駅に到着。
通常であればロープウェイは17時で終了だが、豪雨により運転停止している。
ここぞとばかりに休む。
係員から手渡された整理券は400番台。
何分毎の運行かは分からないが、10分の行程を20名乗りの機体が往復しているという。
・・・考えるのを止めた。
待合室で身体を休めていると、空に晴れ間が見え始める。
虹が見える。
これまでに見たことのないほど、はっきりとした虹だ。
雨粒、水滴が大きいから濃く見えるという。
やがて同行者は全員揃い、奇跡的に下山を果たした。
遭難者数、世界ワースト記録を保持するという谷川岳。
豪雨の中の下山という荒行を果たし、既に始まっている筋肉痛と闘いながら、湯治を目指して車両に乗り込むのだった。
(續く)
(0802工期満了)
投稿者 yoshimori : July 18, 2010 11:59 PM