時折吹き抜ける風は思いの外強く、自らの意思とは無関係に身体が左右に振られている。
台風は関東を目指していないというが、今にも泣き出しそうな鉛色の空に、傘が破壊されるほどの強風とは外出を控えるには格好の天候だ。
都営線を二本、私鉄線を一本乗り継いで移動する。
手にした傘が煩わしく、道行く誰かにティッシュ配りの要領で手渡したい衝動でいっぱいだ。
18時、目的の店に到着。
北京屋台料理を謳うという。
扉を開け案内されたのは、何故か六人掛けの席。
さほど広くない店内に卓は六つあり、この時刻で半分は埋まっている様子。
まずは啤酒(ビール)をと生を頼む。
続けて水餃子を。
醤油、辣油、酢を小皿に満たして食す。
無難に青椒牛肉絲を。
壁に貼り出された品書きに「婆どうふ」という文字が見えるが、写真はどうみても麻婆豆腐以外の何物でもない。
その真実たるや何ということもない、「麻」の文字が「招福」の札に隠れていただけだ。
で、その婆どうふを頼む。
替わりに、女児紅(紹興酒)を。
店主は甕を卓上に置くと、前掛けからソムリエナイフを取り出し、ナイフでコーティング部分を剥ぎ、コルクを抜く。
琥珀よりも色濃い液体だが、意外と喉に優しい。
〆は酸辣湯(スーラータン)。
黒胡椒が余す所なく散りばめられ、鶏肉、豆腐、椎茸、木耳、筍、長葱等の具材ががっつりと入っていて、でろでろしたスープ成分における、さらっとした液体部門が希薄であり、さっぱりと〆る予定がなかなか〆にならない。
続々と訪れる客が何処に案内されるのかと眺めていると、店主の導きで地下にすいこまれていく。
入口より入って来たひとりの中年男性が店主に話し掛けている。
男は短い金髪でよく陽に灼けており、派手なシャツに半パン姿で、おっさんが若造気取りかよと思いつつちら見すると、竹中直人氏だった。
あの低い美声で店主に「忘れ物しちゃってさ」と遺失した荷を捜している様子。
店主より「探したけどなかったよ」と返され、残念そうに申し訳なさそうに照れながら去ってゆく竹中氏。
程なくして、紙袋を抱えた竹中氏が再度入店し、満面の笑みで「見つかりました、これこれ」と我が手に戻った荷物を店主に報告している。
別れ際にはがっちりと握手を交わし、やはり照れ笑いで出て行った。
後で知るのだが、当店、竹中氏が長年贔屓している店という。
それでいて、何がどうというほど特筆すべき点はないのだ。
店主女将が気さく、料理が庶民的、"@home"的な雰囲気といえば使い古された常套句だろうが、まあ近所にあれば通うかも知れないな、という曖昧な感想を着地点として。
(了)
投稿者 yoshimori : August 12, 2010 11:59 PM