空腹感の訪れを待つ間、永年腑に馴染んだカフェイン含有物を流し込み續けていると、中世欧羅巴におけるマリィ嬢が民衆を氣遣う想いが一片も無いがばかりに斬首に処せられた経緯と同じが如く、自他問わず負の変化に気付かないまま安寧と惰性に過ごしてしまい、事態は既に洒落では済まない状況にまで発展している事もしばしば。
此処は一つと一念発起し、大いなる流れに身を任せたつもりが、結果濁流に呑まれただけだったりもして、反省も無ければ回顧も無いのが現実である。
という訳でもないが、初めての店に来ている。
遠眼にて看板を読むと「いちころ」と読める。
何て物騒な名だろうと軽く戦慄してみたが、其れは誤読であった。
引き戸を開けて暖簾を潜ると筒の中に入れられたきぶんになった。
鰻の寝床とは正に此の形状を指すのだろう、厨房に沿ったカウンタアと四人で座るには狭過ぎる卓が平行に並んでいる。
出迎えた女将より取り合えずと云われ、カウンタアの禁煙席に通される。
其の席にて灰と煙が敬遠されるのは、目の前の専用鍋には煮込まれた具が幾つも晒してあるから。
やがて卓上が片付けられると、改めて席へと案内される。
壁に貼られた品書きに「皮剥」とあるので、女将に肝付きか否か尋ねると「当たり前でしょう」と諭される。
成る程、では冷酒ではなく「冷や」から始めるとしよう。
◇真澄(長野・諏訪)
◇玉乃光(京都・伏見)・・・ 備前岡山雄町米
実は当店「おでん屋」と謳う。
であれば頼まない理由は何処にも無い。
◇大根
◇昆布
◇つみれ
◇袋(薇、白滝、玉葱)
◇焼豆腐
◇竹輪麩
◇じゃが芋
◇焼売巻
最後に頼んだ「饅(ぬた)」は八丁味噌にも似た赤褐色の芥子酢味噌で和えてあって、葱と鮪と若布がくんずほぐれつしており、やたらと酒が進む。
二十一時半を過ぎるか過ぎないかという頃、二人の中年男性が訪れた。
両者とも黒縁眼鏡で、此処が二軒目という体である。
時間も時間だし追い出されるかと思いきや、普通に着座させ、注文を訊いている様子。
当店二十二時にて閉店という。
大将と女将のふたりが気の毒なくらいに休みなく働いており、しかも客の回転率は決して宜しくなく、誰もが長ッ尻である。
黒縁らと入れ替わる体にて店を出る。
外で吐く息は白い。
折角の酒が燗冷ましに為った心持ちにて、仕切り直しと河岸を変えるのだ。
(了)
投稿者 yoshimori : February 9, 2011 11:59 PM