February 16, 2011

『鞘走り蒔絵』

自分の書き記した走り書き、殴り書きの類の文書をもう一度推敲し清書する行為は嫌いではない。
いや、寧ろ好んで行う。

買い物に行くと仮定しよう。
直前に書き込むのであれば、記憶にも新しいが為に失念の憂いもなく、内容と表記の差異は然程重要ではないと考える。

此処で問題視するのは、過去に書き込んだ記憶も手書きの書体も曖昧な文字の羅列である。
恥を忍んで申し上げるが、私の書いた文字は漢字仮名混じりの日本語でありながら難読である。
達筆などという畏れ多い表現とは縁遠い、速記にも似た完全オリジナル版略字と云っても過言ではない。

そして何よりも致命的なのは、書いた筈の本人が読めないという点にあると云えよう。
更に事態を複雑化させているのは、書き記す行為により記憶から抹消している脳のメカニズムにある。

読めない文字の書き込まれた紙片を前にして私は考える。
此れは疑いも無く自筆である。
第三者としての視点で他人事の様に眺めると一枚の絵画にも見える。
主張皆無なシュルレアリスムである。
当然メッセージ性は秘められているが、作者本人にすら伝わらない。
既にメモとして用を為していない。

結果として買い物を諦める。
数日が経過した或る日、買うべき物に気付いて再び書き記す。
後日、改めて見直し難読と判断し全てを諦める。
此の行為を幾巡か繰り返した果てに買い物は達成されるのだ。

が然し、今は其の何巡目かの過程に居る。
私は何を買おうとしているのだろうか。
そもそも此れは買い物メモなのだろうか。
人名にも見えない事もないが、読めない文字を名乗る知り合いなぞ存在するとも思えない。
いや、知己である人の名は文字に著す理由が無い。

自室で発見されるメモの大半は「買うべき物の品名」であると信じている。
室内を見渡しても、現在不足している物品は思い付きさえもしない。
重要ではないのだろうと考える。

文明の利器が及ぼす功罪は、外部記憶に頼ったばかりに忘却と保存が対になった結果にある。
自分に限って云えば、手書きの文字は外部媒体でさえないのが現実なのだ。

・・・私には優秀な書記が必要である。

(了)

投稿者 yoshimori : February 16, 2011 11:59 PM
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