誰が止められるだろうか。
空に浮かぶ雲や川を流れる水が其の崇高なる思想を持って各々行動していないように、飲んだくれもまた同様である。
思考回路は常に停止していると考えていい。
花が咲き小鳥が唄うのは何故か、そういうメルヒェンな発想は欠片も無いのだ。
例えばそう、無我の境地にも等しい禅の世界観を持つ。
瞳は閉じられている事もある。
其れは瞑想という名の半覚醒、半落ち状態である。
人との会話は脊髄の反射で行われているという。
肯定も否定も存在せず、ただ言葉尻を拾うだけのマシーンに徹する。
成る程、幾度と無く繰り返される会話なんぞは其の極北と云っても過言ではない。
聲の大きい者が発言権を持つ筈が、其の大きい聲すら耳に届いていないのも現実である。
大声(たいせい)嬌声は寧ろ排除傾向にあると云える。
山水画を背景とした広大なる大河に其の身を任せる小さき流木の如き儚さ脆さである。
強い意志を持たず、いやさ持ったが故に志の方位は逆のベクトルに働き、結果生きてゆくという選択肢の果てに飲んだくれは成立しているのだ。
誰が止められるだろうか。
(了)
<覚ヱ書キ>
◆啤酒x陸壜
◇煙(香腸)、白髪葱、三ツ葉
◇蜆、大蒜
◇青梗菜、干海老
◇春巻、NG練芥子NG
◇粽、椎茸、焼豚