July 06, 2011

『白日』

坂口安吾作品を読んでいる。
彼の故郷新潟に在る護国神社には「ふるさとは語ることなし」という彼の詩碑が立ってゐるそうだが、石川出身である室生犀星「ふるさとは遠くにあって思うもの」に負けずとも劣らない文句であると云えよう。
多聞に意味を含むとは思うのだが、如何にも負の要素ばかりが耳に残り目に付いてしまい、各各の同郷人に微妙な心持ちにさせる惹句であるに想像は難くない。

安吾の作品の一つに『竹藪の家』なる表題が付けられた中編がある。
樅原駄夫(Daf Momihara)なる凡そ常人に付ける名とは思えない無職の居候と、彼に居座られる一家、友人夫婦と其の子息、母親、兄夫婦が登場する他は、系図屋の夫婦が一瞬だけ物語に絡む程度で、後は友人の伯父に当たる映画館経営者が話に上がるのみである。
何かが起きそうで何も起こらず、辛うじて事件性を帯びているのは兄夫婦の嫁が失踪する一件に限定されるばかり。

登場人物の其其が難解にも複雑な多面性を抱えており、時には優しく時には烈しくリアルに感情を起伏させてはやがて社会生活者としての当然の帰結として沈静化するのだが、居候駄夫だけは一家の構成員らの愚痴を個別に聴いてみたりはするものの、所詮は厄介者であり、あまつさえ働き口を探す素振りさえ見せず、小銭を得る為の絵描き仕事ですら好い加減で済まし、終始一貫したへらへらっぷりである。

成る程、寄宿という様式に依存する中で自我を維持する流儀とは、流れに逆らわず大河を漂うが如しである。
然りとて、大いなる流れに身を任せた挙句の果てに飽くると知った上で、無為に過ごしている振り、或いは実際に無為であるとしても、其れが不偏性を帯びるのであれば此れ以上の主義主張は無いのである。(何か云ってる様で何も云ってない)

(了)

投稿者 yoshimori : July 6, 2011 11:59 PM
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